夜探偵事務所
【3日後 ― 病院】
消毒液の匂いがした。
夜は、ゆっくりと目を開けた。見慣れない、白い天井。
どうやら、病院のベッドの上らしい。
「夜!」
すぐそばで、聞き慣れた、しゃがれた声がした。父の仁だった。
「良かった……ほんまに、良かった……」
仁の目には、涙が浮かんでいた。この三日間、ずっと付きっきりだったのだろう。その顔は、憔悴しきっていた。
「……」
夜は、まだはっきりとしない意識の中、父の顔をただ見つめる。
「聞こえるか?夜……」
「……うん」
か細い声で、夜は応えた。
「生きとるんやぞ、お前は」
仁の声は、安堵に震えている。
「奇跡的にやけどな。太一いう子から、全部聞いたぞ」
「……うん」
「お前は、また無茶しおって…!」
「その話は、今度にして……」
夜は、父の説教を、力なく遮った。
仁は、一瞬、何かを言いかけたが、すぐに、ふっと、力の抜けた笑みを浮かべた。
「……いや、ええんや。生きとってくれたら、それでええ」
「どいつもこいつも……」
夜が、呆れたように、ぽつりと呟いた。
「はぁ?」
「日(あきら)といい、お父さんといい、生きろ生きろって……うるさいねん」
「日がおらなんだら、お前はとっくに死んどったやろが」
「まぁね……」
夜は、あっさりと、それを認めた。
気まずい沈黙が、病室に落ちる。
やがて、仁は、時計を一瞥すると、ゆっくりと立ち上がった。
「今日は、面会時間も終わりやから、帰る。また明日、来るからな」
仁が、病室のドアに向かって、歩き出す。
「お父さん」
夜が、呼び止めた。
「ん?」
仁が、振り返る。
「あの世で、日と会ってん」
「――ほぅ」
仁は、目を見開いた。
「私は、あの世に行こうとしたんやけどな」
夜は、静かに、あの光景を思い出す。
「日は、『僕の分まで生きて』って、そう言った」
「……そうか」
仁は、娘の元へと、ゆっくりと歩み寄った。そして、その頭を、大きな手で、優しく撫でる。
「夜」
夜は、父の方に、顔を向けた。
「ワシの分も、生きるんや」
父の、温かい声。
夜は、その言葉に、少しだけ、困ったように笑った。
「そんなん、200歳くらいまで生きなあかんやん」
その、久しぶりに見る、娘の屈託のない笑顔に、仁も、つられて笑った。
「お前は、一人やない。日も、ワシも、おる」
「……ありがとう」
夜の、心からの、小さな声だった。
「また明日来るからな。ゆっくりせいよ」
仁は、そう言うと、今度こそ、病室から出て行った。
一人になった病室。
夜は、静かに、虚空に向かって呼びかけた。
「日……」
彼女の隣に、すっと、黒衣の影が姿を現す。
夜は、その相棒に向かって、もう一度、言った。
「ありがとうな」