やさしく、恋が戻ってくる

あなたの声が、遠い

季節は春から夏へと移り変わっていた。
制服の袖を短く折りながら、今日子は帰り道、ふと隣の家の二階の窓を見上げた。

もう、明かりはつかない。

浩司の部屋だった場所。

大学を卒業して、就職して、そして一人暮らしを始めた浩司。
「通勤が楽になるから」と笑って言っていたけれど、その言葉の先にある“本当の理由”を、今日子は聞けなかった。

最初のうちは連絡も毎日のようにしていた。
週末には会いに来てくれたし、「仕事、どう?」なんて報告もくれた。
でも、時間とともに、その頻度は自然と減っていった。

(仕事が忙しいんだよね……わかってる)

スマホの通知が来ない日は、もう珍しくなくなった。
たまに届く短いメッセージに、必要以上に胸が高鳴る自分が恥ずかしくて、「私、もっと強くならなきゃ」って、自分に言い聞かせる。

けれど、風が吹き抜ける帰り道でふとした瞬間に、
あの人の声が恋しくなる。

今日は会えるかな、って、思っていたあの頃の方が、まだ近くに感じられた気がする。

今は、声も姿も、少しずつ遠くなっていくようで怖い。

「好きって気持ちだけじゃ、だめなのかな……」

ポツリとこぼれた言葉は、誰にも届かず、夕空に溶けていった。

ひとりの部屋。
机に広げたままの教科書を見つめながら、今日子はそっとスマホを手に取る。

未送信のまま保存されたメッセージ。

「会いたいな」
それだけが、ずっと送れずにいた。



カフェの休憩室。
ランチタイムの忙しさも落ち着いて、ほんの束の間の静けさ。
今日子は麦茶の入った紙カップを両手で包みながら、無言で座っていた。

「今日子ちゃん、なんか最近元気ないね」
隣に腰を下ろした春香さんが、そっと声をかける。

「……え?」

「うん、なんとなく。ぼーっとしてる時間、増えたかなって」

春香さんの優しい目に見つめられて、今日子はごまかすように笑った。
でも、その笑顔はすぐにしぼんで、小さな声でこぼれる。

「彼が……忙しくて、なかなか会えなくて」

春香さんは黙って、うん、と頷いた。

「メッセージも、最近は既読になるのが遅くて……会話も、あんまりないの」
「……そっか」
「わかってるんです。仕事頑張ってるのも、生活が変わったのも。でも……なんか、さびしくて」

カップの中で、氷が静かに揺れる。

「いつも近くにいたのに、最近は、声すら聞けない日もあって……
好きって気持ちはずっとあるのに、それだけじゃ、なんか、届かない気がして……」

そう言いながら、今日子はそっとまぶたを伏せた。

春香さんは、それを遮らず、黙って聞いてくれた。
少しの間を置いてから、穏やかな声で言う。

「……距離ってね、心を試される時があるのよ。
でも、今日子ちゃんはちゃんと想ってる。それって、すごく尊いことだよ」

「……そう、かな」

「うん。だけどね、“寂しい”って気持ちをごまかさないことも大事。
強がることより、自分の本音に気づいてあげる方が、ずっと大人だと思うよ」

その言葉に、今日子の目がほんの少し潤んだ。

「私、ちゃんと向き合えてるのかな……」

「向き合おうとしてるから、こうやって話せたんでしょ?」

「ねぇ、今日子ちゃん」

午後のまかないを食べ終えた休憩室で、春香さんがふと声をかけてきた。

「今度の日曜、遊園地行くんだけど、よかったら一緒に来ない?」

「……遊園地?」

不意の誘いに、今日子は目を瞬かせた。

「うん。大学の友達とか、バイト仲間とか、全部で6人くらいかな。
男女混ざってるけど、みんないい子だし、ワイワイしてて楽しいと思うよ」

「私が行っても……大丈夫?」

「もちろん。っていうか、今日子ちゃん最近ちょっと元気なかったしさ。ういう時こそ、外でいっぱい笑った方がいいって思って」

その言葉に、今日子の胸がじんわり温かくなった。

「……ありがとう。でも……年も違うし、うまく話せるかな」

「大丈夫。今日子ちゃんって、なんだかんだで人懐っこいじゃん?」

「えっ、そ、そうかな……」

「うん。ちょっと不器用だけど、まっすぐでかわいいから、みんなすぐ好きになるよ」
ウインクしながらそう言う春香さんに、今日子は思わず笑ってしまった。

「じゃあ……行ってみようかな。遊園地、久しぶりだし」

「よっしゃ決まり♡ 朝から行くから、しっかり体力つけといてね〜!」

春香さんはすっかり楽しそうに予定を話し始めていて、
その明るさが、今日子の中の重たかった気持ちを、少しずつ押し出してくれた。

もしかしたら、こういう時間も大切なのかもしれない。

まだ会えない浩司への寂しさは消えないけれど、
それだけで日々を閉じてしまうのは、きっともったいない。

ほんの少し前を向けた気がして、今日子はそっと笑った。
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