やさしく、恋が戻ってくる
「これ、美味しそうじゃない?」

藤木くんがカフェのメニューを指差して笑う。
その表情はいつも通り穏やかで、隣にいてくれる安心感は変わらなかった。

今日子は、微笑んでうなずく。

「うん、じゃあそれにしようかな」

だけど、心のどこかで、何かが欠けているような気がしていた。こうして隣にいてくれて、笑ってくれて、やさしく触れてくれる人がいる。それはすごく恵まれていることで、何ひとつ不満なんてない。

それなのに、時々ふいに、胸の中にぽっかりと風が吹く。

「ねぇ、今日子ちゃん」

不意に名前を呼ばれて、はっとする。

「最近……俺の前で、ちょっと元気ないっていうか……気づいてる?」

ドキリとした。
藤木くんは、ちゃんと見てくれている人。だからこそ、ごまかせない。

「ごめん……」

「謝らなくていいよ。責めたいんじゃなくて、
なんか今日子ちゃん、今“無理してる”感じがするなって思って」

その言葉に、胸の奥がぐっと締めつけられた。

「私……ね、藤木くんといると安心するの。ほんとにやさしくて、まっすぐで、傷つけるようなこと絶対しない人だって思ってる。そういう人に大事にされてるのって……幸せなはずなのに……」

でも。
言葉が詰まる。

「……浩司さんのこと、まだ引きずってる?」

ゆっくりと、藤木くんがそう尋ねた。

今日子は、静かにうなずいた。
その瞬間、言葉にできなかった“答え”が、はっきりと形になった気がした。

(私は…)

(“想われている安心”の中にいながら、“想いたい衝動”を、まだ忘れられていない)

浩司の不器用さも、沈黙も、寂しさも全部込みで、それでも自分が愛していたのは、あの人だった。

藤木くんは、優しかった。
この気持ちを責めずに、ただ静かに聞いてくれた。

「……そっか。やっぱり、ちゃんと今日子ちゃんの気持ち、信じたくて、待ってたけど……
誰かを本当に想ってる人に“代わり”として隣にいたくはないな」

優しい言葉が、いちばん痛かった。

今日子は、ただうつむいて、唇をきゅっと結んだ。

“愛されている”のに、苦しい。

それはきっと、自分がまだ“誰かを愛している”から。



土曜の昼下がり。
少し曇った空。
外のテラス席は空いていて、二人は向かい合って座っていた。

今日子は、待ち合わせの時間より少し早く来ていた。
藤木くんが席に着いた瞬間、彼の優しいまなざしを見て、胸の奥が締めつけられるように苦しくなった。

「……来てくれてありがとう」
「ううん。今日子ちゃんが“話したいことがある”って言ったから」

彼は、わかっている顔をしていた。でも、それでも逃げずに向き合ってくれている。

「藤木くん、ほんとうに……これまでありがとう」
「……うん」

「一緒にいるとき、安心できたし、たくさん救われた。
あたたかくて、穏やかで、ああ、恋ってこういうものなんだなって……何度も思おうとした」

言いながら、指先が小さく震える。

「でも……たぶん、私はまだ、終わらせられてなかったの。
過去の気持ちも、自分の中の不安も……それに、“誰かを好きでいたかった気持ち”さえも」

藤木は、黙って聞いてくれていた。

「あなたといるとき、自分が“想われてる”ってことに甘えていたと思う。
でも、“想いたい”って気持ちが、自分の中でまだ消えてなかったことに、気づいてしまった」

「……浩司さん、だよね」

今日子は、目を伏せて、小さくうなずいた。

「でも、戻りたいとか、今さらって気持ちでもなくて……
ただ、“好きだった人”を、ちゃんと終わらせないまま、誰かの隣にいることが、だんだん苦しくなってしまったの」

沈黙。

冷たい風が、テラスの植木を静かに揺らしていた。

藤木はゆっくりと息を吐き、それから言った。

「……正直、寂しいし、悔しいよ。でも、今日子ちゃんがちゃんと自分の気持ちに向き合って、
それを俺に伝えてくれたことは……すごく、ありがたい」

その言葉に、今日子の胸の奥で、何かが静かにほどけた。

「ありがとう。こんなふうに……ちゃんと話せて、よかった」

「……ねぇ、これから先、誰かに愛されるときは、自分の気持ちも、ちゃんと大事にしなよ?」

「うん。もう絶対に、誰かに甘えたままにはならない」

藤木は、やわらかく笑った。

そして立ち上がり、いつものように軽く手を振った。

「じゃあ、またね。いつか偶然、どこかで」

その背中が見えなくなるまで、今日子は座ったまま動けなかった。

それは静かな別れだった。
でも、確かに心に刻まれた別れだった。
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