やさしく、恋が戻ってくる

誕生日の朝の背中・Project Kyoko

今日子の誕生日の3日前。
あと少しですべてが整う、はずだった。

けれど、設計チームからの一本の電話が、浩司の予定を大きく狂わせた。
施工現場での想定外のミス。構造計算の再確認。施主側との調整も必要になる。

「……なんで今日なんだよ」

独りごとのように吐きながら、浩司は図面を握りしめた。よりによって、その日は.......



今日子の誕生日の朝。出がけに一言だけ、今日子に告げた。

「……悪い。今日、少し遅くなる」



それだけ言って、玄関を出ていった浩司の背中は、まるで“今日子の誕生日”などなかったかのように見えた。

リビングには、昨日の夜に用意したアイスティーのグラスがそのまま置かれていた。今日子はそれを片づけながら、心の中で静かに思った。

(……やっぱり、今年も、何もないのね)

何度も期待して、何度もがっかりして。
それでも、どこかで“今年こそ”を願っていた自分が、なんだか滑稽に思えた。

そんな中、スマホに親友の麻里子からメッセージが届いた。

 「お誕生日のお祝いの約束、覚えているよね?美味しいランチ、予約してあるの」

今日子はそっと微笑んで、返信を打った。

「ありがとう。行くね」

鏡の前で、久しぶりにお気に入りのワンピースに袖を通す。きちんとメイクをして、髪を整えて。
「せっかくだし、笑って過ごそう」
そう自分に言い聞かせて、家を出た。

都心のレストラン。窓際の席からは、春から夏へと移ろう空が見えた。

「今日ちゃん、誕生日おめでとう」

麻里子小さなギフトボックスを差し出しながら、にこっと笑った。その手元には、上品なネックレスが光っている。

「ありがとう……綺麗ね、そのネックレス」
「うん、貴之さんがくれたの。付き合い始めて、ちょうど一ヶ月で」

はにかむように笑う麻里子を見て、今日子も笑顔を返した。
心から嬉しいと思っていた。親友が、やっと穏やかな恋を手にしたのだと。


だけど.......その笑顔の中に、ふと、自分の“空白”が浮かび上がった。


今朝、浩司が自分の誕生日を何でもない日みたいに扱ったこと。
何も言わず、ろくに目も合わせず、ただ「遅くなる」とだけ告げて家を出た背中。
“私が今日、誕生日だってこと、忘れてたんじゃない?”

そんな疑念が、静かに心の中で膨らんでいく。

「ねえ、今日ちゃん?」
「……うん」

ナイフとフォークを置き、ワインを一口飲んだその瞬間だった。
言葉が何も出てこなくなって、ただ、視界が滲んだ。

「……ごめん。麻里ちゃん……」
涙が一粒、グラスのふちに落ちた。

「大丈夫じゃないでしょ、今日ちゃん」
麻里子はそっと手を握ってきた。その手のあたたかさに、今日子はようやく声を出した。

「朝ね、こうちゃんに……“遅くなる”ってだけ言われたの。
それだけだったの。
私、今日……誕生日なのに」

「……」

「わかってる、仕事忙しいのも。でも……やっぱり、
あんな風に扱われたら、私、何のためにここにいるんだろうって、自分が、ただの空気みたいに感じちゃって……」

そのあとの沈黙は、決して気まずくはなかった。麻里子は何も言わず、ただ今日子の涙が止まるのを待ってくれた。

やがて、麻里子が静かに口を開いた。

「ねえ、今夜うちに泊まりに来ない? 今日ちゃん、今日はひとりで帰っちゃだめ」

今日子は小さくうなずいた。そしてスマホを取り出し、浩司に短くメッセージを送った。

「今夜は麻里子の家に泊まります」
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