やさしく、恋が戻ってくる
深夜、ようやくひと段落がついた。
PCを閉じ、図面の束に手を置いたまま、浩司は大きくため息をついた。
今日は、今日子の誕生日だった。
本当なら、サプライズでプレゼントするはずだった家の完成図。「お前の夢、叶えるから」
そう言って、驚く顔を見るはずだった。
ポケットの中でスマホが震えた。何かと思って確認すると、未読のメッセージが一件だけ今日子から届いていた。
「今日は麻里子のところに泊まります」
その一文を見た瞬間、息が止まった。画面の文字が、妙に冷たく感じられた。
既読のまま、返信が打てない。指が震えていた。
ふいに脳裏をよぎったのは、かつて今日子が家を空けたことなど一度もなかった日々。
朱里が熱を出した夜も、家事と仕事の両立で疲れていたときも、今日子は必ず、家にいた。浩司の帰りを、待っていた。
「……やっちまったな、俺……」
肩を落とし、スマホをそっとテーブルの上に置く。静かな部屋。
冷蔵庫には、今日子の好きなチーズケーキが、まだ箱のまま残っていた。
誕生日なのに、一緒に過ごせなかった。プレゼントどころか、言葉すら.......ちゃんと伝えられなかった。
浩司は椅子にもたれ、天井を見上げた。自分の中に募るこの想いを、どう伝えたらいいのか。
それすら、わからなくなっていた。
翌朝、今日子が玄関の鍵を開けると、ほんのり冷えた空気が出迎えた。
昨日までと何も変わらない、見慣れたわが家。だけど、今は少しだけ、戻るのに勇気がいった。
「ただいま……」
誰もいないことはわかっていても、声に出してみる。返事はなく、静寂だけが返ってきた。
リビングのテーブルには、浩司のカバンもジャケットもなかった。すでに出社したらしい。
(……やっぱり、あれきりなのかな)
少し胸が痛むのを感じながら、ふとキッチンに目をやる。
なぜか、冷蔵庫の中が気になった。手を伸ばし、扉を開ける。
中段に、見慣れない白い箱がひとつ。ケーキ屋のロゴが入ったそれをそっと取り出して開けると、
そこには、今日子の大好きなチーズケーキ。真ん中には、小さなプレートが乗っていた。
「今日子 お誕生日おめでとう」
チョコペンで書かれた、その不器用なメッセージに、今日子は思わず息をのんだ。
「……あ」
覚えていてくれたんだ。
昨日、あんな風に何も言わずに出ていったから、きっと今年も、って、半ば諦めていたのに。
たったこれだけのことなのに、どうしてこんなに嬉しいんだろう。涙がにじみそうになって、慌ててまばたきを繰り返した。
そして気づく。
「甘えてみようかな」と思えたのは、こうちゃんがまだ“私のことを見ていてくれた”という確かな証だったから。
チーズケーキの箱をそっと閉じ、冷蔵庫に戻す。
それから、今日子はテーブルの椅子に腰を下ろした。
「……こうちゃん」
小さくつぶやいた声に、自分でも驚くくらいの優しさがにじんでいた。
何も言わなかった昨日の朝、でもこうちゃんは、ちゃんと私の誕生日を覚えてくれていた。
スマホを手に取り、メッセージを開く。
何を送ればいいのかわからなくて、しばらく画面を見つめたまま、指が止まる。
(どうしよう。どんな顔して、どんな言葉を選べばいい?)
けれど、昨日、麻里子と貴之に背中を押されたことを思い出す。
“可愛く甘えてみたら?”
呼吸して、今日子は画面に文字を打ち込んだ。送信ボタンを押したあと、心臓がどくんと鳴った。
甘えるなんて、いつぶりだろう。でも、いまはそれを“伝えたい”と思えた。
キッチンの時計は、もうすぐ午後二時を指そうとしていた。
夕方になったら、チーズケーキを出そう。
ふたりで、あの小さなプレートを囲めたら。
それだけで、また少しずつ始められる気がした。
PCを閉じ、図面の束に手を置いたまま、浩司は大きくため息をついた。
今日は、今日子の誕生日だった。
本当なら、サプライズでプレゼントするはずだった家の完成図。「お前の夢、叶えるから」
そう言って、驚く顔を見るはずだった。
ポケットの中でスマホが震えた。何かと思って確認すると、未読のメッセージが一件だけ今日子から届いていた。
「今日は麻里子のところに泊まります」
その一文を見た瞬間、息が止まった。画面の文字が、妙に冷たく感じられた。
既読のまま、返信が打てない。指が震えていた。
ふいに脳裏をよぎったのは、かつて今日子が家を空けたことなど一度もなかった日々。
朱里が熱を出した夜も、家事と仕事の両立で疲れていたときも、今日子は必ず、家にいた。浩司の帰りを、待っていた。
「……やっちまったな、俺……」
肩を落とし、スマホをそっとテーブルの上に置く。静かな部屋。
冷蔵庫には、今日子の好きなチーズケーキが、まだ箱のまま残っていた。
誕生日なのに、一緒に過ごせなかった。プレゼントどころか、言葉すら.......ちゃんと伝えられなかった。
浩司は椅子にもたれ、天井を見上げた。自分の中に募るこの想いを、どう伝えたらいいのか。
それすら、わからなくなっていた。
翌朝、今日子が玄関の鍵を開けると、ほんのり冷えた空気が出迎えた。
昨日までと何も変わらない、見慣れたわが家。だけど、今は少しだけ、戻るのに勇気がいった。
「ただいま……」
誰もいないことはわかっていても、声に出してみる。返事はなく、静寂だけが返ってきた。
リビングのテーブルには、浩司のカバンもジャケットもなかった。すでに出社したらしい。
(……やっぱり、あれきりなのかな)
少し胸が痛むのを感じながら、ふとキッチンに目をやる。
なぜか、冷蔵庫の中が気になった。手を伸ばし、扉を開ける。
中段に、見慣れない白い箱がひとつ。ケーキ屋のロゴが入ったそれをそっと取り出して開けると、
そこには、今日子の大好きなチーズケーキ。真ん中には、小さなプレートが乗っていた。
「今日子 お誕生日おめでとう」
チョコペンで書かれた、その不器用なメッセージに、今日子は思わず息をのんだ。
「……あ」
覚えていてくれたんだ。
昨日、あんな風に何も言わずに出ていったから、きっと今年も、って、半ば諦めていたのに。
たったこれだけのことなのに、どうしてこんなに嬉しいんだろう。涙がにじみそうになって、慌ててまばたきを繰り返した。
そして気づく。
「甘えてみようかな」と思えたのは、こうちゃんがまだ“私のことを見ていてくれた”という確かな証だったから。
チーズケーキの箱をそっと閉じ、冷蔵庫に戻す。
それから、今日子はテーブルの椅子に腰を下ろした。
「……こうちゃん」
小さくつぶやいた声に、自分でも驚くくらいの優しさがにじんでいた。
何も言わなかった昨日の朝、でもこうちゃんは、ちゃんと私の誕生日を覚えてくれていた。
スマホを手に取り、メッセージを開く。
何を送ればいいのかわからなくて、しばらく画面を見つめたまま、指が止まる。
(どうしよう。どんな顔して、どんな言葉を選べばいい?)
けれど、昨日、麻里子と貴之に背中を押されたことを思い出す。
“可愛く甘えてみたら?”
呼吸して、今日子は画面に文字を打ち込んだ。送信ボタンを押したあと、心臓がどくんと鳴った。
甘えるなんて、いつぶりだろう。でも、いまはそれを“伝えたい”と思えた。
キッチンの時計は、もうすぐ午後二時を指そうとしていた。
夕方になったら、チーズケーキを出そう。
ふたりで、あの小さなプレートを囲めたら。
それだけで、また少しずつ始められる気がした。