やさしく、恋が戻ってくる
「今日、ちょっと付き合ってほしい場所がある」
「え? どこへ?」

「その前に……これ、読んでくれる?」

中に入っていたのは、A4サイズの用紙に丁寧にプリントされた図面。
そして、“Project KYOKO”というタイトル。

「……これ、まさか……」
「今日子のために描いた、家の図面だ。若い頃、お前が話してくれた“理想の家”。ずっと覚えてた」

今日子の手が、かすかに震える。
浩司は小さく笑って、立ち上がった。

「タクシー呼んである。行こう、見せたいものがあるんだ」
「ねえ、どこに行くの?」
窓の外に目を向けながら、今日子が浩司に問いかける。

タクシーの車内は冷房が効いていたけれど、ガラス越しの陽射しは容赦なく、8月らしい暑さを思わせた。

浩司はちらりと横目で見て、微笑んだ。

「もうすぐ着くよ。見てのお楽しみ」

「ヒントくらいちょうだい」
「うーん……ヒントは“懐かしい場所”かな」

そう言われて、今日子はほんの少し首をかしげた。

(懐かしい……?)

それから数分後、タクシーがゆっくりと止まった。

窓の外に広がったのは

「……えっ」

思わず声が漏れる。降り立ったその場所は、かつての実家があった場所だった。
今日子の両親が田舎に移住する際、彼女と浩司が譲り受けたあの家。
数年だけ賃貸にしていたが、最後の借家人が退去してから、家は取り壊された。
今日子はあの時、「もう、売った」と浩司に聞かされていた。

「……この土地……てっきり、もう手放したって……」

言いながら、唇がかすかに震える。

浩司は、ゆっくりと頷いた。

「そう“言った”だけだよ。本当は、俺が買った。名義は俺にして、今日子には何も言わずに。
……あのとき、すでに決めてたんだ。いつかこの場所に、今日子のための家を建てるって」

夏の陽射しの中で、風はほとんど吹いていなかった。

けれど、今日子の胸の奥には、何かがふわっと舞い上がるような感覚が広がっていた。

「……どうして、何も言ってくれなかったの?」

「言ったら、驚かせられないからな。これは……俺なりの、贈り物だから」

浩司がそっと、手を差し伸べた。今日子はそれをしっかりと握り、ふたりで並んで、過去と未来がつながる、たったひとつの場所を歩き出す。

門をくぐると、目の前に広がったのは、

「……うそ……」

今日子の言葉が、風に溶けた。

白い塗り壁に、赤みのある瓦屋根。玄関脇には小さなポーチがあり、アーチ型の門柱の上にはアイアンのランプ。
どれも、どこかで見たことのある景色だった。

いや、見たことがあるのではなく、今日子が“いつか住みたい”と、口にしていた景色だった。

「こうちゃん……これ……」

「全部、今日子が“いいな”って言ってたやつ、覚えてたつもり」
浩司はそう言って、優しく手を握ってきた。
「さ、入ろう」

玄関ドアを開けて、手を引かれるまま一歩踏み出すと、やわらかな木の香りがふんわりと包み込んできた。
リビングは南向きの大きな窓で光がたっぷり入り、真っ白な漆喰の壁とオーク材の床が落ち着いたぬくもりを与えている。
キッチンは、今日子が雑誌で見て「いつかこんなキッチンに立ちたい」とつぶやいた、憧れの対面式。
パントリーには、発酵食品が並べられる棚。
奥のドアを開けると、リビングからつながるウッドデッキの先に、家庭菜園のためのスペースが広がっていた。

「ここ……マンションじゃできなかっただろう?」
浩司が微笑む。

「……覚えてたの?」
「ぜんぶ」

振り返った今日子の目に、涙が滲んでいた。

「……こうちゃん……こんな……全部……」

言葉にならない。ただ、胸がいっぱいで、溢れた想いがそのまま涙となってこぼれ落ちた。

浩司が、そっとその頬に手を添える。
「今日子のための家だから。ここで、新しく始めよう。ふたりで、もう一度」

今日子は何も言わず、ただ大きく頷いた。
手のぬくもりと、家全体に満ちる愛情が、夏の熱を忘れさせるほどやさしく、すべてを包み込んでいた。
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