俺様な忠犬くんはご主人様にひたすら恋をする
私はその日、定例の企画会議に出ていた。
内容は詰めの段階で、いつも以上に神経を使ったが、会議は滞りなく終わった。

資料を抱えて廊下に出たとき、フロアが少し騒がしく感じた。

(なにかあった……?)

そう思いながら歩いていると――聞き慣れた声が、背後から飛んできた。

「瑞希!」

足が止まった。
聞き間違いではなかった。

振り向く。
そこにいたのは、藤堂環だった。

紺のジャケットにラフなシャツ。以前と変わらぬ空気をまとって、まるで“何もなかった”かのように立っている。

「……久しぶり」

藤堂が言う。
私は、少し間を置いてから口を開いた。

「今日から復帰なのね」

「そう。戻ってきた」

「了解」

それだけ告げて、視線を資料に落とした。
会話を終える意志を、静かに伝える。
けれど、藤堂は食い下がるように一歩、近づいてきた。

「少しだけ、話せる?」

「業務連絡なら、あとでメールで」

「いや、そうじゃなくて」

「……なら結構」

私は淡々と、静かに言い切った。
一切の揺れを見せず、あくまで“元同僚”として、必要最小限の対応だけにとどめる。

「瑞希、俺――」

「その呼び方、やめて」

藤堂が、言葉を失ったように黙る。
私は少しだけ会釈をして、その場を離れた。
足取りは一定。表情にも感情を出さない。

ただ、胸の奥で小さく、痛む何かを、押し殺す。

(もう関係ない人。私は、進むって決めた)

振り返らない。
振り返らない。
そう言い聞かせながら、私は自分の席に戻った。
< 5 / 89 >

この作品をシェア

pagetop