秘めた恋は、焔よりも深く。
あれは、29歳の年だった。

部下が初めて父親になったと聞いて、
「おめでとう」と口にしながら、
どこかで、自分の番も近いのだろうと思っていた。

学生時代からの付き合いの妻とは結婚3年目。
そろそろ子どもがほしいね、なんて笑いながら、
ふたりで新築マンションの内覧に行ったりしていた。

まさか、自分の身体に原因があるなんて、
ほんの少しも考えていなかった。

無精子症です。

医者の言葉が、しばらく耳の奥で反響した。
「検査ミスでは?」
「ストレスとか、一時的なものじゃ……?」

そんな質問を繰り返す俺を、
医者は冷静に、淡々と否定していった。

帰りの電車の中で、ただ、目を閉じた。

それを妻に伝えたとき、
彼女は泣きも怒りもせず、静かに頷いた。

「じゃあ、ふたりで生きていく未来を考えよう」

そう言ってくれたのに、
俺はその言葉の裏に、彼女の本音が透けて見えた気がした。

子どもを抱く未来を、きっと誰より願っていた人だった。

あの日から、俺は彼女の目をまっすぐ見られなくなった。

「俺と一緒にいることで、彼女の人生は縮む」
そう思った瞬間、もう終わりは見えていた。

何度も話し合ったふりをした。
でも結局、俺の方から離婚を切り出した。

「家族になる資格がない」と思ったのは、
たぶん、自分自身に対してだった。

日曜の午後だった。
休日にしては珍しく家に二人きりで、TVも音楽も流れていなかった。

テーブルに手を置いて、俺はようやく言葉を口にした。

「……ごめん。俺じゃ、だめだろうなって思ってる。」

彼女はうつむいたまま、静かに首を横に振った。

「そんなこと、言わないで」

「言わなきゃいけないんだ。
このままだと、お前の時間が止まってしまう気がする」

「私は、龍ちゃんと一緒にいられたらそれでいい。
……そう、思ってた。でも……やっぱり、
未来が、少しだけ怖くなった。」

その言葉に責める響きはなかった。
ただ、現実の重さが滲んでいた。

「本当は、子どもを抱いて眠るお前が見たかった。
それが叶わないのが、俺のせいだって思うと……」

「違うよ。それを言い出したら、私だって……」

「でも、そうなんだ。」

小さな沈黙が流れたあと、彼女は
指先でそっと、テーブルの端を撫でた。

「……ねえ、ひとつだけお願いがあるの。
これから誰かと出会って、もし、その人と未来を作りたいと思ったら……
どうか、自分を許してほしい。」

涙がこぼれそうになるのを必死にこらえ、彼女は続けた。
「私が、あなたをこんなふうにしてしまったから。
私のせいで、あなたの未来がこんなに閉ざされてしまったから。
だから、どうか、自分を責めないで。」

涙が頬を伝い、彼女は目を伏せた。
「私、あなたに幸せを与えることができなかったから。
でも、あなたはもう、私のせいで苦しむべきじゃない。
だから、幸せになってほしい。」

その横顔を見たとき、俺は一生忘れられないと思った。

離婚届にサインをしたのは、その日の夜だった。
指が震えていたことに気づかれないよう、無理やり笑ってハンコを押した。

あれから、もう何年も経った。
誰にも言えなかったこの想いを、まだ、胸のどこかで抱えている。
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