秘めた恋は、焔よりも深く。
帰宅して、コートを脱ぎ、バッグをソファに置いた。
テーブルの上には、朝飲みかけたままのミネラルウォーターがそのままになっていた。

部屋は静かだった。
暖房の音と、遠くを走る車の音だけが響いている。

(……なんだろう、この気持ち)

美咲はソファに腰を下ろし、膝の上で指を組んだ。

ラーメン屋で偶然会った黒瀬龍之介との時間が、ふとした瞬間に思い出される。
炒飯を少し取り分けてくれて、「餃子、シェアしよう」と自然に笑った彼の横顔。
あんなにカジュアルな場所だったのに、どこか落ち着けて、変に気を張らなくて済んだ。

(そういえば、松田専務とも食事をしたけれど……)

誠実で礼儀正しくて、物腰も柔らかい人。
話題も豊富で、こちらを尊重してくれていたのはよくわかる。
なのに、どこか「相手をしている自分」がいたような気がする。

黒瀬さんとは……なんていうのか、もっと自然だった。
気を遣っていないわけじゃないのに、力が抜けていられる。
言葉にしようとすると曖昧だけれど、居心地がいい、というのが一番近い。

(……でも、あの人には、彼女がいるのかもしれない)

ふと、カフェで見た女性の姿が脳裏をよぎる。
あのときの胸のざわつきが、また少しだけ蘇った。
彼の隣にいる誰かを見て、こんなふうに感じるなんて。
少し前の自分なら、考えもしなかったこと。

「……ほんと、私、どうしちゃったんだろう」

ぽつりと呟いたその声も、静かな部屋にすっと溶けていった。

けれど心の奥には、小さな熱が残っていた。
それは、冷めることのない、温かな余韻だった。

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