秘めた恋は、焔よりも深く。
乾杯のあと、料理が並び、周囲が談笑しはじめた頃。
美咲はひと息ついて、前菜のプレートに手を伸ばそうとした。

ふと、その手よりわずかに早く、隣から白い皿が差し出された。

「これ、取りにくそうだったから」
低く落ち着いた声で、黒瀬さんが料理をさりげなくよそってくれる。

「あ、すみません……ありがとうございます」
「遠慮する人、多いですからね。懇親会って、意外と“最初のひと口”がハードル高い」

美咲は小さく笑って、「確かに」と頷いた。

そんな何気ないやりとり。
周囲では別の話題で盛り上がっていて、ふたりの会話に耳を傾けている者はいない。

でも、彼の手の動き、声の調子、
そして、すぐ隣で感じた空気の温度に、なぜか、ほんの少しだけ意識が向いた。

(……気のせい、だと思う)

ただの気配り。よくできた上司のひとり。

気さくな人。無口だけど、場の空気はちゃんと見ている。

それ以上でも、それ以下でもない。

けれど、美咲はふと気づいた。
この場で、他の誰よりも「会話らしい会話」を交わしたのが、
この隣の黒瀬さんだけだったことに。

なぜか、居心地が悪くない。
けれど、それもまた、どこか不思議だった。

……あまり話したこと、なかったのに。

彼の横顔は、職場で見るよりずっと柔らかかった。
そんなことを思った自分に、ほんの少しだけ驚いた。
心がざわつくほどじゃない。
恋なんて、なおさら。

(……別に、特別なことじゃない)

そう思った。
取り分けるくらい、誰にでもできる。
実際、黒瀬さんは他の人にも、同じように気配りをしていた。

でも、彼が美咲の表情を見ていたことだけは、
なぜだかはっきりと感じた。

(不思議な人……)

ただそれだけ。
ときどき目が合っても、そらすのはいつも美咲の方だった。
“男の人”として見ていたわけじゃない。
彼の声や手の動きが、なぜこんなに記憶に残るのか。
自分でも説明がつかない。

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