秘めた恋は、焔よりも深く。
電車を降りて、人気のない住宅街を歩いていると、
ふいに夜風が肌を撫でた。

白ワインで少し火照った頬に、その冷たさが妙に沁みた。

(……今日は、なんだか疲れたな)

足取りは重くないのに、心はどこか鈍い。

帰宅すると、美咲はゆっくりと靴を脱いだ。
一人暮らしの部屋は、いつもと変わらぬ静けさに包まれている。
玄関の照明を落とし、リビングの間接照明だけを灯す。
コートを脱いでソファに身を預けると、じわりと疲れが滲んできた。

あの家を出た日のことを、思い出した。

25歳で結婚した。
相手は、地方の名家に生まれた長男。
きちんとしていて、穏やかで、少し年上の頼れる人だった。

最初の1年は平和だった。
でも、2年目の終わりには空気が変わった。

「まだ授からないの?」
「婦人科で診てもらった方がいいんじゃないかしら」
「うちの家系はみんな子だくさんなのに……不思議ねぇ」

遠回しな言葉の刃が、少しずつ心を削っていった。

検査をしても、原因は不明だった。
でも、“誰のせいか”を決めたがっていたのは、いつも義母だった。

「子を産めない女に、何の価値があるの?」
その言葉は、今でも心の奥に沈殿している。

夫は何も言わなかった。庇いもしない。否定もしない。
沈黙が、すべてを肯定しているように感じた。

「……私、いらないんだな」
そう気づいた瞬間、すべてが冷たく感じられた。

離婚してからの10年以上、真剣な恋愛なんて考えなかった。
強がりでも虚勢でもなく、ただ、本当にどうでもよかった。

自分を“一人の女”として見られることに、どこか恐れがあった。
どうせ、また傷つく。期待して、裏切られる。
そんな思い込みが、心に壁をつくっていた。

そして今、ふとした優しさに少し戸惑っただけで、
こんなにも過去が疼くなんて、思ってもみなかった。

美咲は立ち止まり、小さく吐息をついた。
夜の風は変わらず静かで、誰もその胸の痛みに気づくことはない。

(……私は、もう大丈夫)

そう口に出せたら、どんなに楽だったろう。
でもその言葉は、まだ、喉の奥で眠ったままだった。
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