まだ君は知らない、君の歌



 沙月が、いたずらっぽく口元をゆるめる。
 その瞳はどこか茶化すようでいて、けれど確かに、私を見透かしていた。


「じゃあさ。気をつけた方がいいよ?」

「え、な、何を?」


 思わず身を引くと、沙月はニヤリと笑う。
 私が慌てるのを楽しんでいる顔だった。


「“音楽で繋がった関係”って、距離感バグるから。気づいたら、落ちてるかもよ?」

「お、落ちてるって……な、なにに……?」


 焦って問い返すと、沙月は肩をすくめ、少し首を傾けて、さらりと言ってのけた。


「……恋、に決まってるでしょ?」

「~~~っ! 沙月っ!」


 顔から火が出るんじゃないかと思った。熱が一気に耳まで上って、心臓がうるさいほどに跳ねる。
 けど、沙月はそんな私の反応を見て楽しそうに笑った。

 まったく、人のことをからかって……!

 でも、否定の言葉が喉につかえて出てこない。
 代わりに浮かんできたのは──

 私の頭の中に浮かぶのは、
 マイクスタンドを丁寧に直してくれた手。
 「大丈夫」と背中を押してくれた言葉。
 そして──「君が欲しい」なんて、初めて言われた冗談みたいなセリフ。

(いや──何考えてるの、私!)

 慌てて首を振る。
 そんなの、大した意味なんてない。ただの軽音部への勧誘だったのだ。
 あんなの、本気で受け取る方がおかしい。

 なのに、ほんの少しでも心が浮かれた自分に気づいてしまって、ますます恥ずかしくなる。
 今すぐこの話題を終わらせてしまいたいと願った、その時。


「すごいじゃん」

「え?」


 不意に、沙月の声が柔らかくなった。
 驚いて顔を上げると、さっきまでの茶化すような笑みとは違う、穏やかで優しい笑顔がそこにあった。
 さっきまでの興奮がすっと引いて、やわらかい光の中に戻っていく。


「びっくりしたけど……なんか、ちょっと嬉しい。絃音、なんか最近変わった気がしてたんだよね」

「え? 私、なんにも……」

「自覚ないのか」


 沙月は苦笑して、そっと私の手を取った。
 いつか風邪をひいたとき、黙って隣に座ってくれていたあのときと同じ、変わらないぬくもり。細くてあたたかい、その手の感触に、胸の奥がじんわりと熱くなる。


「無理だと思ったら、逃げてもいいからね。でも」


 ゆっくりと、言葉を選ぶように、優しく続ける。
 その言葉は、まっすぐに、やさしく届いた。


「もし、歌うのが楽しいって思えるなら──その場所、大事にしていいんじゃない?」


 胸の奥にそっと触れて、ほどけかけた気持ちを、やさしく包んでくれるような声だった。

(……楽しい……)

 それは、あの日の放課後。奏良くんたちの音の中で、感じていたこと。
 でも、それを“楽しい”って認めてしまったら──もう、戻れないような気がして、本当はちょっと怖かった。

 それでも。


「……うん」


 私は小さく頷いた。
 何かをこぼさないように、慎重に、でも確かに。
 沙月は嬉しそうに目を細めて、私の手をぎゅっと握り続けてくれる。


「よかった。絃音がちゃんと、やりたいこと見つけて、そこに進もうとしてるの、すごく嬉しい」


 その言葉に、胸がいっぱいになる。
 声にできない思いが、胸の奥でぽろりとこぼれそうになる。

 この手のぬくもりは、昔から変わらない。
 でも、私自身は──たぶん、もう少しずつ変わり始めているのだろう。

 静かな陽光の中で、私は、ほんの少しだけ前を向いた。


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