まだ君は知らない、君の歌
夏の朝の空気は、少し湿り気を帯びていて、制服のシャツがじわりと肌に張りついてくる。
まだ始業には早い時間帯。登校してくる生徒はまばらで、グラウンドにも人気はない。
けれど昇降口の前の階段だけは、少しずつ朝の社交場として機能しはじめていて、友達同士でしゃべったり、スマホを見せ合って笑ったりする姿がぽつぽつと見えた。
(……今日も、何も起きませんように)
そんなことを思いながら、足を速めようとしたそのとき。
靴を履き替える手がふと止まり、自然と顔が上がった。
「……あ」
まるで無意識に導かれるように、視線の先に立っていたのは──彼だった。
ちょうど正門の前、登校してくる生徒の波の中に、彼の姿を見つけてしまった。
黒のギターケースを背負い、軽い足取りで歩いてくる。制服のYシャツの袖を折り返して、少し寝癖の残る前髪を手でかき上げるその仕草。
その何気ないひとつひとつが、気取っていないのに、なぜだか目を奪われてしまう。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、私は慌てて目を逸らして上履きに履き替える。
だけど──
「絃音」
聞き慣れた声が、私の名前を呼んだ。
私のいる下駄箱の前で、奏良はいつもの調子で声をかけてきた。
「お、おはよう」
私は思わず背筋を伸ばし、会釈した。反射的に出たその姿勢が、自分でも妙に堅苦しくて笑いそうになる。
「おはよ。ちょっといい?」
「え、う、うん」
戸惑いながらも頷くと、奏良は自然な足取りで、すっと距離を詰めてきた。
落ち着いた表情のまま、ふと私を見下ろして、一瞬だけ目を細める。
「髪、ちょっと跳ねてる。……こっち」
そして、言葉とともに、彼の指先が私の前髪に触れた。
「っ……!」
一瞬、息が止まった。
彼の指が、そっと前髪を整えていく。
指先は思ったよりも柔らかくて、すごく優しくて──ただ髪に触れただけなのに、頬まで熱くなる。
その距離、ほんの数十センチ。
顔を上げたら、すぐ目が合うくらいの近さ。
手の動きにあわせて少し前屈みになる彼の輪郭が、近すぎて、まともに息ができない。
「……よし。大丈夫」
奏良は、当たり前のことのように微笑んで、前髪を整えた手を離した。
まるで、何気ない朝のやりとりの一部のように。
でも――それを見ていた、周囲の視線が私の背中に突き刺さった。
「え、一ノ瀬さん……今、奏良くんと話してた?」
「ちょ、見て、あの距離……え、ふつうに友達なの……?」
「え、てか名前呼び?」
背中で、誰かのささやき声が走った。
振り返らなくてもわかる。クラスの女の子たち。奏良くんのファンの子たち。
(やば……)
私は一気に冷や汗をかいた。咄嗟に下を向く。目が合うのが怖かった。
この人たちは悪くない。ただ、私が──私なんかが、同じ空間にいることが、おかしいだけで。
「……ごめん、目立った?」
奏良くんは、私の気持ちに気づいたのか、ふと目線を落として、小さく私の耳元で呟いた。
その声の近さに、心臓が一拍跳ねた。
鼓膜が熱い。視線が全部、こっちに突き刺さってる気がして、息が詰まる。
「ちょ、ちょっとだけ……?」
「そっか。……でも、俺は別に隠す気ないよ」
「……!」
思わず顔を上げると、奏良は真っ直ぐな目で私を見つめていた。その瞳に嘘はなくて、私の言葉を待っているのがわかる。
うまく言葉が出てこなかった。でも、目を逸らすこともできなくて。
きっと今、私の顔は真っ赤だ。
だけど、それでも。
「わ、私、別に……いやってわけじゃないの」
ぽつりと、絞り出すようにそう口にすると、奏良くんは一瞬だけ目を見開いたあと、優しく笑った。
「そっか」
その笑顔が、心の奥にじんわりと染み込んでくる。
「じゃあ、放課後。音合わせ、やろ」
いつも通りの口調。当たり前のような声色で、何事もなかったかのように言う。まるで何もなかったみたいに。
その普通さが、なんだかすごく嬉しかった。
私は、こくんと小さく頷いた。
奏良くんが先に校舎へ入っていく。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
湿った夏の空気が、少しだけ軽くなった気がした。