―待ち合わせは、                   名前を忘れた恋の先で―

第9章|ふたたび動き出す季節

 春の風が通り過ぎたあと、彼の姿はもうそこにはなかった。
すれ違っただけ──それだけなのに、胸の奥がざわついていた。
その日から私は、なんとなく同じ時間に駅へ向かうようになった。

 

 名前も、顔も、思い出せない。
でも、もう一度、あの人に会いたい。
そんな想いが胸に残ったまま、日々が流れていった。

 

 一方で──
高瀬大翔も、また、あの日の余韻に囚われていた。

 

 「……間違いない、紬だった」

 

 数年ぶりに目にした彼女の姿。
あの時のように静かで、でもどこか大人びた雰囲気を纏っていた。
彼女の視線が自分をすり抜けていったとき、大翔の胸には苦い痛みが走った。

 

 (……もうおれのことなんて覚えてないのか)

 

 だけど、仕方がないとも思った。
彼女がいなくなったあの日から、何も知らないまま時間は過ぎてしまった。
彼はずっと後悔していた。
自分がもっと早く気づいていれば、彼女は──

 

 それでも、大翔は彼女にまた会えたことに、運命めいたものを感じていた。
忘れられていたとしても、もう一度近づくことができるなら──

 

 それからというもの、大翔は彼女の姿を探して、何度も駅に足を運んだ。
本なんて読まないくせに、改札近くの書店に毎日のように立ち寄った。

 

 まるで、自分が登場人物のひとりになったような気がして。

 

 そして──数週間後。

 小さな書店の店先で、彼女が文庫本を手に取っているのを見つけた。

 

 「……やっぱり、いた」

 

 声をかける勇気は、そのときすぐには出なかった。
でも彼は、自分の心がまた動き始めたことに気づいていた。

 

 忘れられててもいい。
もう一度、君と話せるなら──それでいい。
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