八咫烏ファイル
【夕方・夜探偵事務所】
コンコン。
静かな事務所の古びたドアが控えめにノックされた。
「はい」
健太がそう応じながらドアに向かう。
扉を開けるとそこに一人の男が立っていた。
上質な仕立ての良いスーツ。隙のない洗練された立ち居振る舞い。一目でエリートビジネスマンと分かる鋭い目つきの男だった。
「アークス・リアルティの霧島と申します。山本様とお約束を……」
「お待ちしておりました。どうぞ」
奥のデスクから凛とした声が響く。夜だった。
霧島と名乗った男が中へ入る。夜はすっと立ち上がると彼の前まで歩み寄り名刺を差し出した。霧島もまた寸分の狂いもない所作で自らの名刺を夜に渡す。
その黒い光沢のあるカードにはこう記されていた。
『株式会社アークス・リアルティ 代表取締役専務 霧島 聡』
「こちらへお掛けください」
夜はソファへと彼を促す。
霧島は軽く一礼しソファに深く腰を下ろした。
健太は黙って二人分のコーヒーをローテーブルに置く。そしてそのまま夜が座るソファの横に控えた。
「資料は拝見いたしました」
夜が静かに切り出す。その声は健太と話す時とは全く違う礼儀正しくそして冷徹な響きを持っていた。
「東京都内で土地の買収を急に進めている謎の人物について調査をご希望とのこと」
霧島はコーヒーに口をつけた。そして一息つくと重い口を開く。
「はい。我々がいくら条件を提示しても決して首を縦に振らなかった地主たちが次々と土地を手放している。そのような状況です」
「そしていくつか不自然な点が……」
「不自然と申しますと?」
夜は静かに問い返した。
「ご存知かもしれませんが現在の東京の地価は異常なまでに高騰しています。それをまるで金に糸目をつけないかのように買い占めている。とてつもない資金力です」
「なるほど。その場合登記簿などを調べれば所有者の特定は可能なのでは?」
夜が核心を突く。
「通常はそうです」
霧島はそこで一度言葉を切った。
「昨年から施行された住所非公開措置というものをご存知ですか?」
「ええ」
「ストーカー被害などを防ぐための制度です。ですがこれを巧みに利用している。登記を閲覧できないのです。法人ではなく個人名義で買い進めているようですが……これだけの規模の買収を一個人が行っているとは到底考えられません」
「法改正を利用した巧妙な隠れ蓑というわけですか」
「……はい」
「分かりました」
夜は短くそう応えた。
そのあまりにもあっさりとした返答に霧島は少し戸惑ったような顔を見せる。
そして何かを言いかけたがやがて口を固く結びゆっくりと立ち上がった。
「山本さんは仕事が出来るお方だ」
霧島は独りごちるようにそう呟いた。
「私にはわかります」
夜はただ黙って霧島の顔を見る。
霧島はそこでふっと初めて表情を緩めた。
「美味しいコーヒーを出す会社は仕事が出来る」
にこりと穏やかに笑う。
そして深々と一礼をした。
「それではよろしくお願いいたします」
霧島はそれだけ言うと事務所を後にした。
健太はドアが閉まるのを確認すると夜に声をかけた。
「夜さん……あの人何か隠してません……?」
「あぁ」
夜は霧島が残していった名刺を指で弾きながらニヤリと笑う。
「―――だから面白いんだろうが」