恋うたかるた

第9章 われても末に -皐月-


『逢ひ見ての (のち)の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり』 -権中納言敦忠


 乗り換えの駅で別れたその日の夕方、沢田に送った志織のお礼のLINEに届いた彼からの返信は、久しぶりに百人一首の中のひとつだった。

 逢ってからの募る恋心に比べれば、逢うまでの苦しかった日々は取るに足らないことだったという彼の今の気持ちを伝えてくれたのだと思うと志織はうれしさに胸が震えた。

 小倉百人一首には恋の歌が43もあると言われている。

 数えたことはなかったが、志織にはそのすべてが記憶の抽斗に収められていた。

 家に帰った志織は、瑞穂が見つけてくれたベンガラ色の小箱を手に取ると、絵札の中からその43枚を取り出して並べた。
自分の今の気持ちをいちばん伝えることができる歌を見つけたかったのだ。


『ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ -待賢門院堀河-



 自分を想ってくれている彼の心がずっと続くか不安がありながらも、志織は夢中になって心乱れている気持ちを伝えたかった。
 
 乱れるほどの長い髪ではなかったが、愛されている時に沢田が指でやさしく梳かしてくれた肩までかかる髪は、切るのをもう少し先にしようと思いながら、返歌として志織は彼に送った。



「そうだ、お父さんから手紙預かってたんだ」

 その夜のこと…
 
 夕飯を一緒に済ませ、母娘の平和な夜が終わってそれぞれの寝室に向かおうとしたとき、思い出したように瑞穂が言った。

 その日、彼女が父親に会いに行くことは志織も知っていたが、手紙を預かっていると知って驚いた。
  
 そして、きっと瑞穂は忘れたふりをして、志織がひとりで読めるように気を配ったのだと思った。

「ありがとう。 あとで読んどくわ」

「うん、ごめんね、おやすみなさい」


(郵送すれば良いものを、娘を巻き込んでしかも気を遣わせるなんて)

 ひとりになってベッドに座った志織は、かすかな不快を覚えながらハサミを出して封を切った。



 別れた夫からの手紙には少し前に瑞穂がひとりごとのようにして志織に言ったとおりの内容が、2枚にわたって書かれていた。

“許してもらえるならもう一度やりなおしてみたい”

(5年も経って何をいまさら…)

 読み終えた志織は、便箋を少し乱雑にたたむと封筒に戻してサイドテーブルの抽斗へ無造作に入れると身体を横たえて、ナイトテーブルの灯りを消した。



 目くるめく沢田との時間を想い起こしながら幸せな眠りにつこうとしていた志織は、予期しなかった手紙の文面で水をかけられた気持ちになったが、その冴えてしまった頭でカーテンの隙間から差す薄明りを見ていると数時間前の情景が甦ってきた。

 落ち着いて振り返ると恥ずかしくてたまらなかったが、沢田の穏やかでやさしい笑顔を押しのけるようにかつての夫の顔が割り込んできた不愉快を感じながらその夜、志織はいつの間にか眠りに落ちていた。



 翌朝、瑞穂は手紙について何も話題にしなかった。

 聡明な子だからきっとその内容を察しているんだわ、と志織は感じると同時に、瑞穂のことも考えないと、と冷静に思うのだった。


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