近くて、遠い、恋心
「おぉ〜い、夏菜。どうした、こんな所で寝てたら風邪ひくぞ」

 パソコンに突っ伏しいつの間にかダイニングテーブルの椅子に座り寝こけていた私の頭上から心地よい低音が響く。
 ぼんやりとした視界の中に黒髪の男性が写る。夢の中の彼、稲垣理人はもう少し高めの声だったなと、どうでもいい回想をしつつ、まだぼんやりとする視界に数度瞬きを繰り返す。

「おい、どうした? 固い椅子に座り過ぎて腰でもやられたか? 女の子に冷えは大敵だからな。さっさと風呂、入ってこいよ」

 ニッと笑う顔は、あの時と変わらない。
 引き締まった体躯に、低めの声。幼さの残る爽やかイケメンは、二十七歳となり精悍な顔つきの中にちょっぴり色気が混ざる大人の男へと成長した。それなのに太陽のような笑顔だけは変わらないなんてズルい。
 この笑顔を見るたび、切ないまでの恋心が吹き出しそうで辛い。
 あの冬から、彼のことを『理人』と呼ぶことをやめた。『お兄ちゃん』と言う言葉は隠し持つ恋心への免罪符だ。そう呼べるうちは、彼の妹でいられる。だけど、私の気持ちも知らず、お兄ちゃん風を吹かせる彼が憎らしい。

「お兄ちゃんには、関係ないでしょ」
「おっ、なんだ? 今日の夏菜は機嫌が悪いな。悩みごとか? お兄ちゃんに話してみろよ」

 小憎らしい態度に怯むことなく、理人は私の茶色のボブ髪をわしゃわしゃと撫でる。その手があまりにも優しくて無性に泣きたくなった。
 長かった髪は失恋した翌日にバッサリ切り、短く切りそろえた黒髪に誓った。
 忘れようって。でも、忘れられなかった。
 だから今でも、髪は伸ばさないと決めている。だけど、心は切ないほどに揺れてしまうのだ。
 髪が長かったら、もっと優しく撫でてくれるのかな。綺麗だって褒めて、長い髪を手に取ってくれたのかな。
 誰よりも近い存在なのに、心は誰よりも遠い。兄妹じゃなかったら、恋人になれたのかな。少なくとも、この辛いだけの恋からは抜け出せたのかもしれない。
 あふれそうになった涙を隠すように俯いたけど、流れ出した涙は止まらない。パタパタとキーボードに落ちる涙の音に、頭に置かれた手が止まった。
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