近くて、遠い、恋心
「……どうした、夏菜?」

 こんな時だけ、真剣な声を出すなんてズルい。理人はズルい、ズルい、ズルい。

「仕事が辛いのか? 今日だって仕事持ち帰ったんだろ?」

 真っ暗なパソコン画面からは、私が仕事を持ち帰って来たことはわからない。
 でも理人の言葉は正しい。広告代理店の締め切りは顧客の信頼にも関わるから、納期は絶対に破ることは出来ない。下請けの中規模広告代理店であれば尚更だ。納期を破ったが最後、仕事がなくなるなんてザラにある。だからこそ、数週間前から仕事を家にも持ち帰り、納得いく仕上がりになるまで粘っていた。ただ、家族と暮らしている以上、無理は出来ない。表には出さないように気をつけていたけど、一緒に暮らしているからこそ隠せない変化があったのかもしれない。

「お母さん達は気づいているの?」
「いいや、気づいてない。だって、心配するだろ」
「うん……」

 でも理人は気づいたんだ。
 そんな聡いところも嫌い……

「あんま無理すんなよ。俺が手伝えるところは手伝うぞ」
「……手伝えないくせに」
「営業一筋の俺じゃ、無理か」

 ははは、と邪気のない笑顔を向ける理人が嫌い。この世の誰もが一度は名前を聞いたことがある大手銀行の営業マンで、常にトップの成績を保ち続ける彼に不得意なことなんてあるのだろうか。
 なんでも器用に卒なく熟し、人並み以上の成績を簡単に出してしまう。そんな優秀過ぎる理人に、何事も人並みにしか出来ない私の苦労なんてわからない。
 無性に腹が立ち顔をあげ理人を睨めば、優しい笑みを浮かべた彼に涙の跡を指先で拭われた。

「泣くほど辛い職場なら辞めちまえ。俺が養ってやるよ」

 理人の何気ない一言が心をえぐる。
 なんでも器用に出来ちゃう理人に私の気持ちなんてわからない。
 涙の跡を辿る理人の指先を振り払い立ち上る。

「無職になってもお兄ちゃんには頼らないんだから!」

 ベェっと舌を出しあっかんべぇをする私を見て理人の目が丸くなる。
 少しは反撃出来たかなと急ぎ足で浴室へと向かった私の耳に理人の声は届かない。

「本当、可愛くねぇ……、本気なんだけどな」
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