近くて、遠い、恋心

平行線の未来図

 夕闇沈む街中を小走りで走り抜け、駆け込んだ路地裏の喫茶店。息を切らし扉を開け店内へと入れば香ばしいコーヒーの香りが焦った気持ちを少し落ち着かせてくれた。
 夕飯時の店内は喫茶店だからか人もまばらだ。ざっと見回し、奥の角席に目的の人物を見つけてホッと息をついた。
 テーブルにパソコンを広げ真剣な顔つきの彼――、佐々木真さんは私の存在にまだ気づいていない。紺色のストライプスーツに身を包み臙脂色(えんじいろ)のネクタイを締めたビジネススタイルは一見すると硬質に見えるけど、甘いマスクと後ろへと撫でつけた焦茶色の髪が良い意味で硬い雰囲気を壊し優しい印象を周りに与えていた。ザ・出来る男風とでも言うのか、大手広告代理店勤務なだけあり、とても洗練された身なりをしている。
 彼と長い付き合いでなければ、きっとあのイケメンオーラにやられていただろう。今も、女性二人組が、佐々木さんを見て頬を染めコソコソと話している。このまま放っておけば、逆ナンパされそうだ。それは、それで面倒なことこの上ない。
 足速に通路を抜けた私は、さっさと佐々木さんに声をかけた。

「佐々木さん、お待たせしちゃってごめんなさい」
「あぁ、稲垣さん。すみません、無理言って」

 立ち上がり恐縮そうに頭を下げる佐々木さんに手を振り『大丈夫です』と伝える。大手と下請け、その間に立ちはだかる壁は大きい。下請けが頭を下げることはあっても、大手広告代理店が頭を下げることはないと言われるくらい同じ業界の中でも地位格差は大きい。下請けへと仕事を依頼する大手広告代理店勤務の営業の横柄な態度に、無理な要求を何度も受けてきた身としては、佐々木さんの態度は神と言っても良い。しかも、仕事もできるときている。彼と出会ってから二年、仕事の要求はとても厳しく、正直何度も根をあげそうになった。しかし、彼と仕事をした後の作品の出来と満足感は何ものにも変えられない高揚感を私にもたらしてくれる。
 だから、やめられないのよねぇ。
 残業が何十時間になろうと、家に仕事を持ち帰ろうと、完璧を求めてしまう。そのおかげで、今回の仕事もクライアントから最上級の褒め言葉を贈られたと、数週間前に聞いたばかりだったけど。
 お互いに立ったままなのもどうかと思い、佐々木さんに着席を促し店員へとコーヒーを頼むと、彼の向かいの席へと腰掛ける。

「それで――、どうしたんですか? 特に、社長から次の仕事の話は来ていなかったと思いますが」
「えっと、次の仕事ではないのですが……、ご提案がありまして」
「提案ですか?」
「はい。稲垣さんは、海外での仕事に興味はありませんか?」

 佐々木さんの言葉の意図が読めず、首を捻る。
 ここ数年の広告業界の大きな流れの一つとして大手広告代理店の海外進出が取り沙汰されているけど、中小の広告代理店にとっては海外進出など夢のまた夢だ。中規模の広告代理店に勤務する私には、海外での仕事など雲の上の存在で、そんなチャンスが自分に落ちてくるなど考えたこともない。
 でも佐々木さんの口ぶりからは、その"海外の仕事"は私に関係があるようだ。
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