近くて、遠い、恋心
「はい。家に帰っても一人なので、佐々木さんさえよろしければ」
「えっ? 稲垣さんって、一人暮らしなの?」
「いいえ、違います。今、両親は旅行中で、兄は帰りが遅くなると言っていたので」
「へぇ、お兄さんがいるんですね」
「えっ? いなさそうですか?」
「なんて言うか、稲垣さんって甘え下手って言うか、何でも一人で抱えてしまうでしょ。妹って言うより、姉って感じなんですよね。だから、お兄さんがいるって聞いて不思議に感じただけです。あぁ、もちろん稲垣さんを責めてる訳じゃないですよ。たまには頼ってくれてもなぁって思うんで。でも、最後にはきちっと仕上げてくるから、ちょっと寂しいなぁって」

 照れ隠しに笑いながら、気まずそうに視線を外す佐々木さんの思わぬ一面を見て、心がほっこりしてしまう。
 いつも余裕があって気配り上手で大人の男性なのに、失敗して目を逸らす子供のような態度を取る佐々木さんの姿は新鮮で親近感が湧く。誰しも完璧ではない。そう思うだけで心が軽くなる。

「ふふふ、佐々木さんでも焦ることってあるんですね」
「参ったなぁ、俺、かっこわりぃ」

 ボソッと吐き出された言葉も普段の丁寧な彼からは想像できないほどフランクで、それがまたいい。

「いえいえ。佐々木さんの意外な一面が知れてよかったです。まぁ、わたしが何でも出来ると言う言葉は置いておいて、わたしが妹っぽくないのは家庭環境が影響しているからだと思います。兄とは血が繋がっていなくて、高校生のときに親が子連れ同士で再婚して、義理の兄が出来たんです」
「そうだったんですね。込み入った話を聞いてしまって、すみません」
「いいえ、隠すことでもないですし……、私が人に甘えられないのは、たぶん母一人、子一人で育って来たからだと思います。小さい頃は祖母もいましたが亡くなってから働きに出る母の代わりに家事全般は私の役目でしたから」

 忙しい母に甘えるなんて出来なかった。そのくせは、母が再婚して新しい家族が出来たとしても変わらない。
 どこか家族に遠慮している私の心の葛藤に気づき手を差し伸べてくれたのも、義理の兄となった理人だった。
 うざったいくらいに干渉し、家族の行事には問答無用で参加させられる。二つの家族は、理人の努力により歪ながらも一つの家族になれたのだ。

「でも、今は幸せですよ。家族仲もいいですし」
「それ……、本当にそう思っている?」
「えっ?」
「稲垣さん。俺には君の笑顔が辛そうに見えるんだ。どうしてだろうね」 

 佐々木さんの真剣な眼差しにさらされ、時間が止まる。彼の言葉がぐるぐると頭をめぐり身動きが取れない私の手がつかまれ、心臓が痛いくらいに走り出す。
 佐々木さんは気づいている。家族という枠にはめられた私の歪さに。
 これ以上踏み込まれたら、取り返しのつかないことになる。義理の兄に抱く邪な想いを佐々木さんに暴かれたら最後、私は"妹"という仮面をかぶり続けることは出来ない。
 つかまれた手を振り払って逃げろと頭の中で警鐘が鳴り続けているのに一歩が踏み出せない。

「佐々木さん……、手……、手を離して……」
「夏菜さん、俺は頼りにならないかな?」

 佐々木さんが私の方へと足を一歩踏み出した時だった。背後から響いた低い聴き慣れた声に心臓が止まりそうになった。
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