貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

第15話 封じられた神託

 ――それは、幾重にも麻布に巻かれた、古びた羊皮紙の束だった。

 神殿の地下、誰ひとり立ち入ることを許されぬ封印庫。
 埃と湿気がこもり、重苦しい空気が淀む神殿最深部にて、それは発見された。
 巨大な石板の下、鎖で封じられていたその場所。
 錆びた鎖を解き、石板を動かしたとき、そこには長い年月の痕跡を色濃く残す巻物が、静かに横たわっていた。
 革紐で厳重に閉じられ、真紅の封蝋が打たれている。
 その封には、古の文字でこう記されていた。

 ≪神託 禁巻 第七番──不敬と滅びの記録≫

「これは……まさか、本当に存在していたのか。我らが先代の神官長たちが、必死に隠蔽しようとしたという、この禁忌の預言書が……」

 大主教は呆然と呟いた。
 その顔は蒼白に染まり、蝋燭の揺れる灯に照らされながら、脂汗を浮かべていた。
 隣に控えていた補佐神官は、震える指で巻物の表面の埃を払い、一節を震える声で読み上げる。

「≪かの者、神を斬りし時、その魂は世界を捨てられん。かの者の手は血に塗れ、その心は人の情を宿さず、ただ一つの執念に囚われん≫」

 一度、喉を鳴らして息を継ぎ、言葉を続ける。

「≪世界の理を拒む者、人の愛に永く応え得ぬ存在となり、その力は天地を揺るがし、この地に災いを呼ぶべし≫」

 沈黙。蝋燭の火だけが微かに揺れ、重い静寂の中に、恐怖が濃く満ちていく。
 その預言の文言は、あまりにも正確に――いまこの世界を生きる、『黒衣の勇者』ノワール・ヴァレリアンの存在を映していた。

「……これは、まさしく『彼』のことではないのか……?この預言が、真実だったと?」

 誰かが呟いたその一言に、全員が口を閉ざした。
 否定できる者などいなかった。
 それは、信仰の基盤そのものを揺るがす『神の記録』だった。
 神殿が長年讃えてきた神の名。
 その御前で、剣を振るい、裁きを下した男――ノワール・ヴァレリアン。
 彼は本当に世界を救ったのか、それとも、救いの名の下に『神の座』を奪ったのか。
 神が恐れ、拒んだ者。世界が祝福するには、あまりにも異質で、危険すぎる存在。

 ――イリス・クラウディアは巻物を凝視していた。

 まるで、それが自分の運命を暴く鏡であるかのように、凍りついた目で。
 かつて師から密かに伝えられた『秘された預言』。
 旅の途中、彼と共に死線を超えた日々のなかで、その言葉は確かに現実と重なっていった。

 ――本物の勇者が生まれるとき、神々はその存在を恐れ、自らの座を守るために、それを拒む

 その言葉こそが、彼が選ばれなかった理由だった。

 『魔力ゼロ』と断じられたあの日から、ノワールは神に見捨てられたのではない。
 神に恐れられ、封じられた存在だったのだ。
 ノワール・ヴァレリアンとは、神の秩序を脅かす『特異点』そのものだった。
 イリスは唇を噛みしめ、奥歯が軋む。
 彼の旅は孤独だった。
 信頼は裏切られ、功績は利用され、それでも彼は人を憎まず、ただ一人の言葉だけを信じてきた。
 彼の執念は、信仰にも正義にも向けられていなかった。
 ただ――『あの人』へと、すべてを捧げていた。

 そして今、彼はその愛を手に入れようとしている。
 いや――すでに手に入れたのだ。
 玉座の間で、カローラが自ら彼の傍を選んだ瞬間に。

 だが、それが『救い』になるとは、限らない。

 預言は告げている――その愛は祝福ではなく、『呪い』であると。

    ▽

 その夜、カローラは静かに机の前に座っていた。
 部屋の灯りはひとつ、蝋燭の火だけ。
 開け放たれた窓から、夜の冷たい風が流れ込み、揺れる炎が壁に不規則な影を落としている。
 書きかけの手紙や報告書が並ぶ机の隅に、一枚の文献の写しが置かれていた。
 王都の貴族階級のあいだで、密かに囁かれている『預言』の断片――それは、ノワールに関するものだった。
 彼と共に歩むことを選んだはずの今、その文に記された言葉が、カローラの胸を深く突き刺す。

 《黒衣の勇者は、人の心を持たぬ魔性である》
 《その愛は、祝福ではなく『呪い』である》

 「……呪い……?」

 その一言が、震えるほど細く口から漏れる。
 無意識に両手の指を絡め、強く握りしめていた。冷えた指先が、心の奥の不安を代弁しているかのように震えている。
 胃の奥が鈍く痛む。胸のあたりに、不快な冷たさがじわじわと広がっていく。
 まるで目に見えない毒が、ゆっくりと彼女の心臓に忍び寄っているような感覚だった。

 あの夜――十年ぶりに、彼が見せてくれた笑顔を思い出す。

 戦場でも、王宮でも見せなかった、無垢で、どこか少年の面影を残した微笑み。
 あの瞬間、すべてが報われたと思った。
 彼の手が、自分の手を包んだときのぬくもり――優しく、けれど決して離さないように強く、確かに繋がれていたあの感触。
 それは、「愛」だった。
 そう、思っていた。

 だが――本当に、そうだったのだろうか?

 その微笑の奥に、恐ろしいほどの意志を感じたのも確かだった。
 神を殺し、世界を拒み、それでもなお私を選ぶという、『絶対』の意思。
 彼の声が、まるで呪文のように耳の奥で反響する。

 「君のためなら、何もいらない。すべてを明け渡す。この世界ごと、君に捧げる」

 あのときは、ただ嬉しかった。
 けれど今は――その言葉の意味が、あまりにも重すぎて、理解が追いつかない。
 それは愛なのか? それとも……執着という名の狂気なのか?
 彼の愛は、あまりにも優しすぎて、強すぎて、確かすぎた。
 まるで「逃れることなど許されない」と、静かに、しかし絶対的に語りかけるような感覚が、そこにはあった。
 カローラは、両膝に置いた手で胸のあたりを強く押さえる。
 心臓の鼓動が、喉の奥で荒々しく脈打っている。
 乱れた鼓動は、まるで自分の内側から彼への不安を否応なく叩き出そうとしているようだった。

「ノワール……あなたの優しさは、本当に『愛』だったの? それとも……」

 語尾は掠れ、そこで言葉は途切れた。
 返事はない。もちろん、ない。
 ただ、蝋燭の火がわずかに揺れ、部屋の影をかすかに揺らしているだけ。
 重く静まり返った夜の空気が、彼女の胸の奥に積もっていく。
 ひとときの安らぎのはずだったこの部屋が、今は妙に広く、寒々しく感じられた。
 そして、その静けさの中に紛れて吹き込む夜風が、彼女の頬を優しく撫でていく。
 だがその風の感触すらも、どこか遠く、現実味のないものに思えた。
 まるでそれが、彼の意志――あの冷たい執着の囁きのように感じられてしまう。
 風は囁く。
 逃れられないよ。もう、君は選んだのだから。
 その囁きが幻聴なのか、それとも彼の魂が届いたのか、もうカローラには分からなかった。
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