貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。
第16話 イリスの告白
その日、カローラは自らイリスを呼び出した。
謁見の間での騒動以来、ノワールの傍に立つイリスの姿は、王都でも密やかに囁かれていた。
カローラは彼女と、正面から向き合って話すべきだと感じていた。
夜の帳が下りる直前、空はまだ群青の名残をとどめ、星々が淡く瞬き始めていた。
離れの書斎に、白いランプの灯がひとつ。
ぼんやりと揺れるその光は、部屋の隅々に柔らかな影を落とし、二人のあいだに漂う緊張をひときわ際立たせていた。
イリスは、音もなく現れた。
まるで最初からそこにいたかのように。
その足取りにはまったく音がなく、彼女の気配もまた、風のように希薄だった。ノワールと同じく、戦場を渡り歩いた者の『気配』だった。
静かに扉を閉めるその仕草は、訓練された者だけが持つ精度と沈黙を帯びていた。
感情を読ませることを拒む者の動き――だが、それでも、カローラには何かが伝わった。
「……はじめまして、イリス・クラウディアさん。カローラ・エヴァレットです。本日は、お忙しいところお越しいただき、ありがとうございます」
カローラは、真正面から彼女の目を見た。
イリスの瞳は、まるで磨き上げられた宝石のように澄んでいて――その奥には、言葉では語られぬ覚悟と、深い疲労の色が滲んでいた。
イリスは、わずかに頷いた。
「……ご用件は、承知しております」
イリスは淡々と、まるで予定された台詞を読み上げるかのようにそう答えた。
だが、その声音の奥に――ほんのわずかだが、鋼のような決意が張りつめているのを、カローラは敏感に感じ取った。
「ええ。では……単刀直入に伺います」
カローラの声は低く落ち着いていたが、その眼差しには一切の迷いがなかった。
彼女は真正面から、目の前の『証人』に問いを投げる。
「あなたは――ノワールにとって、何だったのですか?そして……私が彼を拒絶してからの十年間、彼はどこで、どうしていたの?」
言葉に込められた切実さは、沈黙の中にも強く残る。
それは、自分が知らない間に育ってしまった空白の十年を、少しでも埋めたいという必死の祈りだった。
イリスは一度だけ、わずかに視線を落とした。
まぶたが伏せられ、口元がわずかに引き締められる。
その仕草の一つ一つに、言葉にできない葛藤が滲んでいた。
そして、すすめられるままに椅子へと腰を下ろす。動作は滑らかで、呼吸さえも音を立てなかった。
だが、確かにあった。
その沈黙の中に、イリスの中で煮え立つような、隠しきれない熱が。
「――彼は、世界を斬っていました」
声はあまりにも静かで、温度がなかった。
淡々と語られるそのひとことは、逆に現実味を帯びすぎていて、まるで刃のようにカローラの胸へ突き刺さる。
それは報告でもなければ、回想でもない。
戦友を語る者の、魂の奥から絞り出された、告解にも似たひとことだった。
「彼は、『希望がない』と分かっていたんです」
イリスは、視線を逸らすことなく、言葉を続けた。
「どれだけ救っても、神に祝福されることはない。どれほど努力しても、誰にも讃えられない……誰の心にも、きっと届かないと知っていた」
声は静かだったが、その一言一言の奥に、戦火の記憶が宿っていた。
血の匂い、焼けた肉の煙、命乞いをする者たちの声。
それでもなお、剣を振るわねばならなかった日々の記憶が。
「それでも、彼は剣を抜いたんです。正義のためでも、民のためでも、王の命令でもない――たった一人のために」
イリスの目が、カローラをまっすぐに射抜いた。
「それだけが、彼の唯一の理由だった」
カローラは息を呑んだ。
胸の奥に、冷たい波紋が静かに広がっていくのがわかった。
ノワールの戦いは、ただの戦果ではなかった。
英雄として讃えられるためのものでもなかった。
それは、十年前に拒絶された少年が、自分の存在を証明するために選んだ、あまりにも孤独な道だったのだ。
「世界のためじゃない。民のためでも、秩序のためでもない」
イリスの声音に、はっきりと熱が宿った。
「彼の剣は――あなたのために振るわれ続けてきたんです……もう一度、あなたの隣に立つために。それだけを願って、彼はあらゆる地獄を歩き続けたの」
言葉が、焼けた鉄のように、じりじりとカローラの皮膚に食い込んでいく。
その情熱は、怒りでも責めでもなかった。
それは、誰よりも彼を見てきた者だからこそ抱えた、痛ましいまでの『理解』だった。
「……彼は、あなたの名前を呼ばなかった日は、一度もありませんでした」
イリスの声が、わずかに震えた。
「魔物に囲まれても、毒に冒されても、敵の刃に倒れても……夢の中でも、瓦礫の下でも、地獄の底でも……ずっと、あなたのことを考えていた。彼の全ては、あなたへの執念で形作られていたんです」
イリスの言葉にカローラは、その場から動けなかった。
視界が滲むわけでもない。涙が出るわけでもなく、ただ、心の奥で、何かが崩れた音がした。
あの日、たった一言『嫌い』と言っただけだった。
たったそれだけで、彼の十年は始まったのだ。
否、終わりを迎えずに続いてしまったと言うべきか――まるで、凍てつく氷の雫が、彼女の心臓の中心へ落ちていくようだった。
静かに、音もなく、しかし確かに。
彼が歩んできた十年という歳月。
その重みが、音もなくカローラの背中に降り積もっていく。
「でもね――」
イリスは、ふいに顔を上げる。
その瞳はまっすぐにカローラを射抜いていた。
「あなたのいない日々の彼は、もう『人間』じゃなかった。笑わない。泣かない。痛みにも、喜びにも、一切の反応を見せない。ただ、黙って剣を振るだけ。感情のない人形のようだった」
彼女の声は冷静だったが、そこにあったのは諦念ではなかった。
それは、限界を知る者だけが持つ、静かな悲しみ。
「彼の言葉を聞き、顔を見て、笑いかけられたのは、私だけでした。だけど――私は、あなたではなかった。どれだけ近くにいても、彼の心はいつも、あなたの方を見ていた」
イリスの言葉に、嫉妬も怒りもなかった。ただ、哀しみがあった。
届かない愛を抱き続ける者の、清らかで切実な諦め。
「だから、あなたが彼の手を取るというなら――覚悟して」
イリスは静かに言った。
その声音は、まるで遺言のように重く響いた。
「ノワールは、あなたを救う存在じゃない。むしろ、彼自身があなたによって救われたいと願っている。あなたが彼を人間に戻す覚悟がなければ、彼は永遠に孤独の闇の中を彷徨い続けるわ……彼は、あなたのためなら世界すらも壊せる。愛の名を借りたその執着は、やがてこの世界さえ呑み込むかもしれない」
カローラの手が、わずかに震えた。
イリスの言葉は、刃のように鋭く、容赦なく彼女の心に切り込んでくる。
「私が……彼を?この私が、彼を『人間に』……?」
震える声で問いかけたカローラに、イリスは静かに頷いた。
「ええ。今の彼には、『自分』という軸がない。彼の存在は、あなたの言葉ひとつで決まる。彼の生も、死も、力も、すべて――あなたの掌にあるのよ」
そう言い残し、イリスは立ち上がる。
扉の前で、静かに振り返った彼女の表情は、吹っ切れたような、どこか清らかで空虚な笑みだった。
「だから……間違えないで。その力を、絶対に誤って使わないで」
――あなたの愛は、たった一人の命を縛る呪いにもなる。
そして、その呪いは、やがて世界さえも巻き込むかもしれない。
静かに、扉が閉じられた。
その音が、カローラの耳には、未来の扉が音を立てて閉じたように響いた。
カローラは、その場から動けなかった。
座ったまま、胸の奥に渦巻く熱と痛みを、ただ黙って抱きしめる。
あの夜、彼の手を取った瞬間。あの甘く幸福な選択の裏には、一人の人間の十年という歳月と――世界すら左右しかねない重責があったのだと、ようやく知ったのだった。
謁見の間での騒動以来、ノワールの傍に立つイリスの姿は、王都でも密やかに囁かれていた。
カローラは彼女と、正面から向き合って話すべきだと感じていた。
夜の帳が下りる直前、空はまだ群青の名残をとどめ、星々が淡く瞬き始めていた。
離れの書斎に、白いランプの灯がひとつ。
ぼんやりと揺れるその光は、部屋の隅々に柔らかな影を落とし、二人のあいだに漂う緊張をひときわ際立たせていた。
イリスは、音もなく現れた。
まるで最初からそこにいたかのように。
その足取りにはまったく音がなく、彼女の気配もまた、風のように希薄だった。ノワールと同じく、戦場を渡り歩いた者の『気配』だった。
静かに扉を閉めるその仕草は、訓練された者だけが持つ精度と沈黙を帯びていた。
感情を読ませることを拒む者の動き――だが、それでも、カローラには何かが伝わった。
「……はじめまして、イリス・クラウディアさん。カローラ・エヴァレットです。本日は、お忙しいところお越しいただき、ありがとうございます」
カローラは、真正面から彼女の目を見た。
イリスの瞳は、まるで磨き上げられた宝石のように澄んでいて――その奥には、言葉では語られぬ覚悟と、深い疲労の色が滲んでいた。
イリスは、わずかに頷いた。
「……ご用件は、承知しております」
イリスは淡々と、まるで予定された台詞を読み上げるかのようにそう答えた。
だが、その声音の奥に――ほんのわずかだが、鋼のような決意が張りつめているのを、カローラは敏感に感じ取った。
「ええ。では……単刀直入に伺います」
カローラの声は低く落ち着いていたが、その眼差しには一切の迷いがなかった。
彼女は真正面から、目の前の『証人』に問いを投げる。
「あなたは――ノワールにとって、何だったのですか?そして……私が彼を拒絶してからの十年間、彼はどこで、どうしていたの?」
言葉に込められた切実さは、沈黙の中にも強く残る。
それは、自分が知らない間に育ってしまった空白の十年を、少しでも埋めたいという必死の祈りだった。
イリスは一度だけ、わずかに視線を落とした。
まぶたが伏せられ、口元がわずかに引き締められる。
その仕草の一つ一つに、言葉にできない葛藤が滲んでいた。
そして、すすめられるままに椅子へと腰を下ろす。動作は滑らかで、呼吸さえも音を立てなかった。
だが、確かにあった。
その沈黙の中に、イリスの中で煮え立つような、隠しきれない熱が。
「――彼は、世界を斬っていました」
声はあまりにも静かで、温度がなかった。
淡々と語られるそのひとことは、逆に現実味を帯びすぎていて、まるで刃のようにカローラの胸へ突き刺さる。
それは報告でもなければ、回想でもない。
戦友を語る者の、魂の奥から絞り出された、告解にも似たひとことだった。
「彼は、『希望がない』と分かっていたんです」
イリスは、視線を逸らすことなく、言葉を続けた。
「どれだけ救っても、神に祝福されることはない。どれほど努力しても、誰にも讃えられない……誰の心にも、きっと届かないと知っていた」
声は静かだったが、その一言一言の奥に、戦火の記憶が宿っていた。
血の匂い、焼けた肉の煙、命乞いをする者たちの声。
それでもなお、剣を振るわねばならなかった日々の記憶が。
「それでも、彼は剣を抜いたんです。正義のためでも、民のためでも、王の命令でもない――たった一人のために」
イリスの目が、カローラをまっすぐに射抜いた。
「それだけが、彼の唯一の理由だった」
カローラは息を呑んだ。
胸の奥に、冷たい波紋が静かに広がっていくのがわかった。
ノワールの戦いは、ただの戦果ではなかった。
英雄として讃えられるためのものでもなかった。
それは、十年前に拒絶された少年が、自分の存在を証明するために選んだ、あまりにも孤独な道だったのだ。
「世界のためじゃない。民のためでも、秩序のためでもない」
イリスの声音に、はっきりと熱が宿った。
「彼の剣は――あなたのために振るわれ続けてきたんです……もう一度、あなたの隣に立つために。それだけを願って、彼はあらゆる地獄を歩き続けたの」
言葉が、焼けた鉄のように、じりじりとカローラの皮膚に食い込んでいく。
その情熱は、怒りでも責めでもなかった。
それは、誰よりも彼を見てきた者だからこそ抱えた、痛ましいまでの『理解』だった。
「……彼は、あなたの名前を呼ばなかった日は、一度もありませんでした」
イリスの声が、わずかに震えた。
「魔物に囲まれても、毒に冒されても、敵の刃に倒れても……夢の中でも、瓦礫の下でも、地獄の底でも……ずっと、あなたのことを考えていた。彼の全ては、あなたへの執念で形作られていたんです」
イリスの言葉にカローラは、その場から動けなかった。
視界が滲むわけでもない。涙が出るわけでもなく、ただ、心の奥で、何かが崩れた音がした。
あの日、たった一言『嫌い』と言っただけだった。
たったそれだけで、彼の十年は始まったのだ。
否、終わりを迎えずに続いてしまったと言うべきか――まるで、凍てつく氷の雫が、彼女の心臓の中心へ落ちていくようだった。
静かに、音もなく、しかし確かに。
彼が歩んできた十年という歳月。
その重みが、音もなくカローラの背中に降り積もっていく。
「でもね――」
イリスは、ふいに顔を上げる。
その瞳はまっすぐにカローラを射抜いていた。
「あなたのいない日々の彼は、もう『人間』じゃなかった。笑わない。泣かない。痛みにも、喜びにも、一切の反応を見せない。ただ、黙って剣を振るだけ。感情のない人形のようだった」
彼女の声は冷静だったが、そこにあったのは諦念ではなかった。
それは、限界を知る者だけが持つ、静かな悲しみ。
「彼の言葉を聞き、顔を見て、笑いかけられたのは、私だけでした。だけど――私は、あなたではなかった。どれだけ近くにいても、彼の心はいつも、あなたの方を見ていた」
イリスの言葉に、嫉妬も怒りもなかった。ただ、哀しみがあった。
届かない愛を抱き続ける者の、清らかで切実な諦め。
「だから、あなたが彼の手を取るというなら――覚悟して」
イリスは静かに言った。
その声音は、まるで遺言のように重く響いた。
「ノワールは、あなたを救う存在じゃない。むしろ、彼自身があなたによって救われたいと願っている。あなたが彼を人間に戻す覚悟がなければ、彼は永遠に孤独の闇の中を彷徨い続けるわ……彼は、あなたのためなら世界すらも壊せる。愛の名を借りたその執着は、やがてこの世界さえ呑み込むかもしれない」
カローラの手が、わずかに震えた。
イリスの言葉は、刃のように鋭く、容赦なく彼女の心に切り込んでくる。
「私が……彼を?この私が、彼を『人間に』……?」
震える声で問いかけたカローラに、イリスは静かに頷いた。
「ええ。今の彼には、『自分』という軸がない。彼の存在は、あなたの言葉ひとつで決まる。彼の生も、死も、力も、すべて――あなたの掌にあるのよ」
そう言い残し、イリスは立ち上がる。
扉の前で、静かに振り返った彼女の表情は、吹っ切れたような、どこか清らかで空虚な笑みだった。
「だから……間違えないで。その力を、絶対に誤って使わないで」
――あなたの愛は、たった一人の命を縛る呪いにもなる。
そして、その呪いは、やがて世界さえも巻き込むかもしれない。
静かに、扉が閉じられた。
その音が、カローラの耳には、未来の扉が音を立てて閉じたように響いた。
カローラは、その場から動けなかった。
座ったまま、胸の奥に渦巻く熱と痛みを、ただ黙って抱きしめる。
あの夜、彼の手を取った瞬間。あの甘く幸福な選択の裏には、一人の人間の十年という歳月と――世界すら左右しかねない重責があったのだと、ようやく知ったのだった。