貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。
第17話 偽りの英雄譚
夜の王都――すべての灯が消えた広場には、静寂が支配していた。
そこに残されていたのは、粉々に砕けた巨大な石像の残骸。
それはつい数時間前まで、《第一聖堂》の正面広場にそびえ立っていた――『黒衣の勇者』ノワール・ヴァレリアンの像だった。
剣を掲げ、神性の加護を象徴する翼を背負ったその像は、民衆の期待と恐れを一身に受けて建てられたものだった。
しかし今、それは瓦礫と化し、無残に月光を反射している。
破壊の痕跡は、どこにもなかった。
爆破された形跡も、魔術の焼け焦げもない。
ただ、胸部を中心に黒い焼け跡が残り、像全体が内側から崩れ落ちていた。
それはまるで、『意志』だけで砕かれたようだった。
そこに、ひとりの男の影があった。
漆黒の外套に身を包み、夜に溶け込むように歩く男――ノワール・ヴァレリアン。
かつて神々を斬り伏せ、王国を救い、そしてすべての権威を拒絶した存在。
彼の一歩ごとに、瓦礫がかすかに音を立てる。
けれどその足音はあまりに静かで、まるで世界が彼に気づくことを拒んでいるかのようだった。
月の光が彼の肩を照らし、砕かれた像の破片に長い影を落とす。
やがて、その足音に導かれるように、カローラ・エヴァレットが姿を現した。
白い外套の裾が風に揺れ、その表情には、今なお消えぬ戸惑いと、押し殺された決意が宿っていた。
「……来てくれたのか」
ノワールが振り返り、低く呟いた。
その声は静かだったが、夜の広場に、鋭く切り込むように響いた。
カローラは頷き、数歩彼に近づいた。
砕けた石の上を踏む音が、妙に遠く感じられる。
彼女の視線が足元の破片を捉える。
像の顔の一部が転がり、無表情のまま彼女を見上げていた。
「……これはあなたが?」
問いかける声は、責めでも恐れでもなく、ただ確かめるような色を帯びていた。
ノワールは答えず、足元の石片を一つ、無造作に蹴った。
軽い音が響き、それはカローラの足元へと転がっていく。
「俺は、誰かに崇められるために生きてきたわけじゃない」
その言葉には、静かな拒絶があった。
怒りでも抗議でもない。ただ――絶対的な否定。
「神の名のもとに俺を祀るだと?この世界は、相変わらずだ。人を都合よく形にして、偶像にして、飾って、跪かせる」
彼の声には、感情の起伏がなかった。
しかし、その冷たさの奥に、カローラには確かに見えた――燃えるような痛みを。
「俺が欲しかったのは、そんなものじゃない。ただ……お前の傍にいること。それだけが、俺の望みだった」
ノワールはゆっくりと、瓦礫の上を踏み越え、彼女のすぐ前に立った。
二人の間に、崩れた剣の破片が転がっている。
それは像が握っていた『象徴の剣』だった。
「お前が笑ってくれるなら、世界なんてどうでもよかった。お前が泣くなら、俺はこの世界をすべて敵に回してでも、止めようと思った」
その言葉は、呪いのように重かった。
しかし同時に、祈りのように切実だった。
カローラは、何も言えなかった。
目の前にいる男の言葉が、あまりにも真っ直ぐで、痛すぎて、返す言葉が見つからなかった。
彼の指が、そっとカローラの髪を撫でた。
その指先は、ひどく冷たかった。
しかしそこには、壊れ物を扱うような、慎重な優しさがあった。
「だから、俺をもう……飾るな。王が、神殿が、民が何を望もうと、俺の真実は、お前だけが知っていればいい」
それは、誓いだった。崇拝でも忠誠でもなく、一人の男が、一人の女に捧げた、生きる理由そのものだった。
ノワールの目が、彼女を捉える。
その黒い瞳には、底のない深さがあった。
孤独、苦痛、憎悪、愛――すべてを抱き、それでもなお、彼女だけを見ていた。
「……わたしは、あなたの望んだものだったの?」
ようやく絞り出した問いに、ノワールは頷くでも、否定するでもなく――ただ、静かに言葉を返した。
「俺の望みは、お前だけだ。それ以外は、もう、何も要らない」
そう言ったあと、彼はゆっくりと、手を伸ばした。
まるで霧の中を掴むような、慎重で迷いを孕んだ動きだった。
その指先が、カローラの頬の近くでわずかに震える。
触れていいのか、触れてはいけないのか――自らの感情と葛藤するかのように。
だが最後には、その手はそっと、彼女の頬をなぞった。
まるで、夢を確かめるように、あまりに柔らかくて、あまりに恐る恐るで、そこには力はなかった。
その手の温もりは微かで、けれど確かに、生きている人間の体温だった。
それは彼の内に残る『人間』としての最後の名残のようで、カローラの胸に刺さるような痛みを残した。
短く、乾いた夜風が吹く。
砕けた石像の破片が転がり、広場にはふたたび静寂が戻ってくる。
その夜、カローラはようやく理解した――ノワールが求めていたのは、名誉でも栄光でも、赦しでもなかった。
ただ、自分という存在のすべてを、ひとりの人間として受け止めてくれる者。
その一人を、彼はずっと待ち続けていたのだと。
彼の愛は、純粋だった。
あまりにも、狂気に近いほどに。
そしてその孤独は、誰よりも深く、誰にも触れられない場所に根を下ろしていた。
それでも――彼は言ったのだ。
「お前だけが知っていればいい」
その言葉が、彼の『祈り』であり、誰にも救えなかった彼に残された、ただひとつの“救い”だった。
そこに残されていたのは、粉々に砕けた巨大な石像の残骸。
それはつい数時間前まで、《第一聖堂》の正面広場にそびえ立っていた――『黒衣の勇者』ノワール・ヴァレリアンの像だった。
剣を掲げ、神性の加護を象徴する翼を背負ったその像は、民衆の期待と恐れを一身に受けて建てられたものだった。
しかし今、それは瓦礫と化し、無残に月光を反射している。
破壊の痕跡は、どこにもなかった。
爆破された形跡も、魔術の焼け焦げもない。
ただ、胸部を中心に黒い焼け跡が残り、像全体が内側から崩れ落ちていた。
それはまるで、『意志』だけで砕かれたようだった。
そこに、ひとりの男の影があった。
漆黒の外套に身を包み、夜に溶け込むように歩く男――ノワール・ヴァレリアン。
かつて神々を斬り伏せ、王国を救い、そしてすべての権威を拒絶した存在。
彼の一歩ごとに、瓦礫がかすかに音を立てる。
けれどその足音はあまりに静かで、まるで世界が彼に気づくことを拒んでいるかのようだった。
月の光が彼の肩を照らし、砕かれた像の破片に長い影を落とす。
やがて、その足音に導かれるように、カローラ・エヴァレットが姿を現した。
白い外套の裾が風に揺れ、その表情には、今なお消えぬ戸惑いと、押し殺された決意が宿っていた。
「……来てくれたのか」
ノワールが振り返り、低く呟いた。
その声は静かだったが、夜の広場に、鋭く切り込むように響いた。
カローラは頷き、数歩彼に近づいた。
砕けた石の上を踏む音が、妙に遠く感じられる。
彼女の視線が足元の破片を捉える。
像の顔の一部が転がり、無表情のまま彼女を見上げていた。
「……これはあなたが?」
問いかける声は、責めでも恐れでもなく、ただ確かめるような色を帯びていた。
ノワールは答えず、足元の石片を一つ、無造作に蹴った。
軽い音が響き、それはカローラの足元へと転がっていく。
「俺は、誰かに崇められるために生きてきたわけじゃない」
その言葉には、静かな拒絶があった。
怒りでも抗議でもない。ただ――絶対的な否定。
「神の名のもとに俺を祀るだと?この世界は、相変わらずだ。人を都合よく形にして、偶像にして、飾って、跪かせる」
彼の声には、感情の起伏がなかった。
しかし、その冷たさの奥に、カローラには確かに見えた――燃えるような痛みを。
「俺が欲しかったのは、そんなものじゃない。ただ……お前の傍にいること。それだけが、俺の望みだった」
ノワールはゆっくりと、瓦礫の上を踏み越え、彼女のすぐ前に立った。
二人の間に、崩れた剣の破片が転がっている。
それは像が握っていた『象徴の剣』だった。
「お前が笑ってくれるなら、世界なんてどうでもよかった。お前が泣くなら、俺はこの世界をすべて敵に回してでも、止めようと思った」
その言葉は、呪いのように重かった。
しかし同時に、祈りのように切実だった。
カローラは、何も言えなかった。
目の前にいる男の言葉が、あまりにも真っ直ぐで、痛すぎて、返す言葉が見つからなかった。
彼の指が、そっとカローラの髪を撫でた。
その指先は、ひどく冷たかった。
しかしそこには、壊れ物を扱うような、慎重な優しさがあった。
「だから、俺をもう……飾るな。王が、神殿が、民が何を望もうと、俺の真実は、お前だけが知っていればいい」
それは、誓いだった。崇拝でも忠誠でもなく、一人の男が、一人の女に捧げた、生きる理由そのものだった。
ノワールの目が、彼女を捉える。
その黒い瞳には、底のない深さがあった。
孤独、苦痛、憎悪、愛――すべてを抱き、それでもなお、彼女だけを見ていた。
「……わたしは、あなたの望んだものだったの?」
ようやく絞り出した問いに、ノワールは頷くでも、否定するでもなく――ただ、静かに言葉を返した。
「俺の望みは、お前だけだ。それ以外は、もう、何も要らない」
そう言ったあと、彼はゆっくりと、手を伸ばした。
まるで霧の中を掴むような、慎重で迷いを孕んだ動きだった。
その指先が、カローラの頬の近くでわずかに震える。
触れていいのか、触れてはいけないのか――自らの感情と葛藤するかのように。
だが最後には、その手はそっと、彼女の頬をなぞった。
まるで、夢を確かめるように、あまりに柔らかくて、あまりに恐る恐るで、そこには力はなかった。
その手の温もりは微かで、けれど確かに、生きている人間の体温だった。
それは彼の内に残る『人間』としての最後の名残のようで、カローラの胸に刺さるような痛みを残した。
短く、乾いた夜風が吹く。
砕けた石像の破片が転がり、広場にはふたたび静寂が戻ってくる。
その夜、カローラはようやく理解した――ノワールが求めていたのは、名誉でも栄光でも、赦しでもなかった。
ただ、自分という存在のすべてを、ひとりの人間として受け止めてくれる者。
その一人を、彼はずっと待ち続けていたのだと。
彼の愛は、純粋だった。
あまりにも、狂気に近いほどに。
そしてその孤独は、誰よりも深く、誰にも触れられない場所に根を下ろしていた。
それでも――彼は言ったのだ。
「お前だけが知っていればいい」
その言葉が、彼の『祈り』であり、誰にも救えなかった彼に残された、ただひとつの“救い”だった。