貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。
第18話 祈りと罪と、ふたりの間
夜――しんと静まり返った屋敷の奥深く、壁の燭台の炎は、ただ微かに揺れていた。
深紅の天蓋の下、カローラは寝台の上で身じろぎもできずにいた。
絹のシーツが肌に触れる感触さえ、今はひどく冷たく感じられる。
身体は石のように固まり、冷たい汗が肌を伝っているのがわかった。
目を閉じているはずなのに、意識だけが深く、深く、底の見えない闇へと引きずり込まれていく。
抗う術もなく、拒むことさえ許されないかのように、彼女の意識はまどろみの底へと沈んでいった。
――そしてまた、『あの夢』が始まる。
それは、彼女を苛み続ける逃れられない幻影であり、同時に、来るべき現実の予兆でもあった。
▽
──空が、ガラスのように音もなく裂け、その亀裂から、漆黒の虚無が、静かに顔を覗かせる。
城が、街が、人々が、まるで砂でできた玩具のように、音もなく崩れ落ちていく。
建物も生命も、すべてが塵と化し、風に溶けて消えていく。
そこには叫びもなく、ただ絶対的な『破壊』があった。
だが、不思議と恐怖はなかった。
その光景は、あまりにも美しく、あまりにも絶対的で、人間が抱く恐怖という感情すら意味をなさなかった。
そこに立つ彼が、崩壊の中心で、ただカローラだけを見つめていたから。
月光を浴びて浮かび上がるその顔は、まるで神聖な彫像のように静謐で――だが、その瞳の奥には、世界すら巻き込むほどの狂気が潜んでいた。
「――カローラ」
その声が、崩壊する世界の中心から、彼女の魂へと直接響いた。
それは全てを包み込み、同時に否定する、絶対者の声。
心地よく響きながら、魂を凍てつかせるという、矛盾を孕んだ響きだった。
地が裂け、空が引き裂かれ、すべてが消えていく中。
ただひとつ、変わらないもの。
それは、彼の穏やかな微笑みと、カローラに向けられた血のように紅い手のひらだった。
その手からは、触れるものすべてを焼き尽くすような、熱と、異質な力が滲み出ていた。
「君を守るために、俺はすべてを壊してきた。君の邪魔をするものは、この世界にひとつたりとも残しはしない。いかなる存在も、俺から君を奪うことは許さない」
「や、やめて……」
「神も、信仰も、命の重さも――全部、君に届かないなら意味がない。俺にとって君以外のすべては、価値のない、どうでもいいものだ」
その言葉に宿るのは、優しさであり、狂気だった。
それは、彼が歩んできた果てしない孤独と執念、そして世界そのものへの絶望の結晶。
その声は冷たい鋼のように硬く、それでいて、甘美な毒のように彼女の心へ染み渡っていった。
「君が望むなら、何もかも消える――この世界も、俺の力も、すべて君の意のままになる。君が指差せば、すべてが塵となる……君が拒むなら、俺自身が消える。喜んで、この存在ごと無に帰そう……だけど──君が笑ってくれるなら、何度でも。何度でも、また世界を殺せる。君のためなら、俺は何度だって悪になれる。どんな咎も、喜んで背負おう」
彼の手が、紅く染まりながらそっと伸びてくる。
その指先が、彼女の肌に触れる寸前で静止した。
触れていないのに、焼けつくような熱が肌を超え、魂の奥深くまで染み込んでいく。
「――君は、俺のすべてだ。この身に巣食う祈りであり、俺を縛る呪いそのものだ」「の、わーる……っ」
その手が触れた瞬間、カローラの身体は焼けつくように熱くなった。
それは物理的な熱ではなく、魂そのものを灼く、業火のような熱だった。
何かが変わった。
取り返しのつかない、不可逆の変化が、彼女の内と、彼との関係に芽吹いてしまった。
「やめて……お願い、やめて……!私を、解放して……あなた自身の呪縛からも!」
かすれた叫びが、白く無音の世界に溶けていく。
その声は虚空へと吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。
▽
──目覚めた時、彼女の身体は震えていた。
全身から脂汗が吹き出し、呼吸は乱れ、心臓が激しく暴れている。
まるで、魂が肉体を抜けかけたかのように。
朝の光はもう昇っていたはずなのに、部屋の空気はまだ、あの夜の闇を引きずっていた。
夢の残滓が、現実にまで冷たい影を落としている。
――ノワールが、そこにいた。
窓辺に立ち、背を向けたまま。
音もなく、気配すらない。
まるで最初からそこにいたかのように、彼は空間に溶け込んでいた。
「……夢を見たのか……壊れる世界の中、俺が君を呼ぶ夢。君が、俺の力に怯え、俺の愛に苦しむ夢」
その声は、まるで彼女の夢のすべてを知っているかのように――いや、まるでその夢を作った『本人』のように響いた。
カローラは喉を鳴らし、掠れた声を絞り出す。
「なぜ……そんな顔で私を見るの?その瞳の奥に、何を隠しているの?まるで、私のすべてを見透かしているかのように……」
ノワールはゆっくりと振り返った。
その仕草は人間というより、機械に近い無音の動作。
しかし、彼の瞳の奥には、人智の及ばぬほどの深さと歪みが宿っていた。
そこには、闇と光、そして決して戻ることのできない『狂気』が混在していたのかもしれない。
「君が拒めば、俺はこの力ごと消えても構わない。俺の存在が君を苦しめるのなら、痕跡も残さず、この世界から消えよう……君の望みとあらば」
その静かな言葉が、彼の覚悟のすべてだった。
その裏に潜む孤独と、異常なまでの執着が、冷たい感情として背中を這い上がる。
「でも──君が許すなら、俺はもう一度、世界を焼ける。君の笑顔を取り戻すためなら、どんな犠牲も厭わない。君が微笑むなら、何人殺したって構わない。君のためなら、俺は喜んで世界の敵になる。この身にすべての罪を背負い、地獄に落ちることさえ、望むところだ」
それは、ただの言葉ではない。
それは真実――彼の魂そのものだった。
カローラは、胸に手を当てた。
その下で高鳴る鼓動が、彼女の中の悲鳴のように響く。
呼吸が浅く、息が詰まりそうだった。
彼の『愛』があまりにも重すぎて、全身が悲鳴をあげていた。
これが『選ばれる』ということなのか?
これが『彼の愛』を受けるということなのか?
それは祝福ではない。
甘い夢などではない。
それは――『業』だった。
自ら選び、逃れることのできない罪。
世界を揺るがすほどの愛情を受けるということの『責任』。
彼を人として繋ぎ止める、唯一の存在としての責務。
彼女は、それをようやく理解した。
そして、もはや二度と――そこから逃れることは『絶対』できないと、魂の底から悟ったのだった。
深紅の天蓋の下、カローラは寝台の上で身じろぎもできずにいた。
絹のシーツが肌に触れる感触さえ、今はひどく冷たく感じられる。
身体は石のように固まり、冷たい汗が肌を伝っているのがわかった。
目を閉じているはずなのに、意識だけが深く、深く、底の見えない闇へと引きずり込まれていく。
抗う術もなく、拒むことさえ許されないかのように、彼女の意識はまどろみの底へと沈んでいった。
――そしてまた、『あの夢』が始まる。
それは、彼女を苛み続ける逃れられない幻影であり、同時に、来るべき現実の予兆でもあった。
▽
──空が、ガラスのように音もなく裂け、その亀裂から、漆黒の虚無が、静かに顔を覗かせる。
城が、街が、人々が、まるで砂でできた玩具のように、音もなく崩れ落ちていく。
建物も生命も、すべてが塵と化し、風に溶けて消えていく。
そこには叫びもなく、ただ絶対的な『破壊』があった。
だが、不思議と恐怖はなかった。
その光景は、あまりにも美しく、あまりにも絶対的で、人間が抱く恐怖という感情すら意味をなさなかった。
そこに立つ彼が、崩壊の中心で、ただカローラだけを見つめていたから。
月光を浴びて浮かび上がるその顔は、まるで神聖な彫像のように静謐で――だが、その瞳の奥には、世界すら巻き込むほどの狂気が潜んでいた。
「――カローラ」
その声が、崩壊する世界の中心から、彼女の魂へと直接響いた。
それは全てを包み込み、同時に否定する、絶対者の声。
心地よく響きながら、魂を凍てつかせるという、矛盾を孕んだ響きだった。
地が裂け、空が引き裂かれ、すべてが消えていく中。
ただひとつ、変わらないもの。
それは、彼の穏やかな微笑みと、カローラに向けられた血のように紅い手のひらだった。
その手からは、触れるものすべてを焼き尽くすような、熱と、異質な力が滲み出ていた。
「君を守るために、俺はすべてを壊してきた。君の邪魔をするものは、この世界にひとつたりとも残しはしない。いかなる存在も、俺から君を奪うことは許さない」
「や、やめて……」
「神も、信仰も、命の重さも――全部、君に届かないなら意味がない。俺にとって君以外のすべては、価値のない、どうでもいいものだ」
その言葉に宿るのは、優しさであり、狂気だった。
それは、彼が歩んできた果てしない孤独と執念、そして世界そのものへの絶望の結晶。
その声は冷たい鋼のように硬く、それでいて、甘美な毒のように彼女の心へ染み渡っていった。
「君が望むなら、何もかも消える――この世界も、俺の力も、すべて君の意のままになる。君が指差せば、すべてが塵となる……君が拒むなら、俺自身が消える。喜んで、この存在ごと無に帰そう……だけど──君が笑ってくれるなら、何度でも。何度でも、また世界を殺せる。君のためなら、俺は何度だって悪になれる。どんな咎も、喜んで背負おう」
彼の手が、紅く染まりながらそっと伸びてくる。
その指先が、彼女の肌に触れる寸前で静止した。
触れていないのに、焼けつくような熱が肌を超え、魂の奥深くまで染み込んでいく。
「――君は、俺のすべてだ。この身に巣食う祈りであり、俺を縛る呪いそのものだ」「の、わーる……っ」
その手が触れた瞬間、カローラの身体は焼けつくように熱くなった。
それは物理的な熱ではなく、魂そのものを灼く、業火のような熱だった。
何かが変わった。
取り返しのつかない、不可逆の変化が、彼女の内と、彼との関係に芽吹いてしまった。
「やめて……お願い、やめて……!私を、解放して……あなた自身の呪縛からも!」
かすれた叫びが、白く無音の世界に溶けていく。
その声は虚空へと吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。
▽
──目覚めた時、彼女の身体は震えていた。
全身から脂汗が吹き出し、呼吸は乱れ、心臓が激しく暴れている。
まるで、魂が肉体を抜けかけたかのように。
朝の光はもう昇っていたはずなのに、部屋の空気はまだ、あの夜の闇を引きずっていた。
夢の残滓が、現実にまで冷たい影を落としている。
――ノワールが、そこにいた。
窓辺に立ち、背を向けたまま。
音もなく、気配すらない。
まるで最初からそこにいたかのように、彼は空間に溶け込んでいた。
「……夢を見たのか……壊れる世界の中、俺が君を呼ぶ夢。君が、俺の力に怯え、俺の愛に苦しむ夢」
その声は、まるで彼女の夢のすべてを知っているかのように――いや、まるでその夢を作った『本人』のように響いた。
カローラは喉を鳴らし、掠れた声を絞り出す。
「なぜ……そんな顔で私を見るの?その瞳の奥に、何を隠しているの?まるで、私のすべてを見透かしているかのように……」
ノワールはゆっくりと振り返った。
その仕草は人間というより、機械に近い無音の動作。
しかし、彼の瞳の奥には、人智の及ばぬほどの深さと歪みが宿っていた。
そこには、闇と光、そして決して戻ることのできない『狂気』が混在していたのかもしれない。
「君が拒めば、俺はこの力ごと消えても構わない。俺の存在が君を苦しめるのなら、痕跡も残さず、この世界から消えよう……君の望みとあらば」
その静かな言葉が、彼の覚悟のすべてだった。
その裏に潜む孤独と、異常なまでの執着が、冷たい感情として背中を這い上がる。
「でも──君が許すなら、俺はもう一度、世界を焼ける。君の笑顔を取り戻すためなら、どんな犠牲も厭わない。君が微笑むなら、何人殺したって構わない。君のためなら、俺は喜んで世界の敵になる。この身にすべての罪を背負い、地獄に落ちることさえ、望むところだ」
それは、ただの言葉ではない。
それは真実――彼の魂そのものだった。
カローラは、胸に手を当てた。
その下で高鳴る鼓動が、彼女の中の悲鳴のように響く。
呼吸が浅く、息が詰まりそうだった。
彼の『愛』があまりにも重すぎて、全身が悲鳴をあげていた。
これが『選ばれる』ということなのか?
これが『彼の愛』を受けるということなのか?
それは祝福ではない。
甘い夢などではない。
それは――『業』だった。
自ら選び、逃れることのできない罪。
世界を揺るがすほどの愛情を受けるということの『責任』。
彼を人として繋ぎ止める、唯一の存在としての責務。
彼女は、それをようやく理解した。
そして、もはや二度と――そこから逃れることは『絶対』できないと、魂の底から悟ったのだった。