貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

第19話 イリスの決別

 午前の光が、高く細長い窓から差し込み、白大理石の回廊に柔らかな筋を描いていた。
 静寂の中、光の柱の内で塵が舞う。
 そのゆるやかな旋回は、まるで時の流れが止まりかけているかのように、幻想的だった。
 その光のなかを、二つの影が静かにすれ違う。
 カローラが足を止め、振り返った先――そこに、白い法衣を纏ったイリスの姿があった。
 あの夜と同じ服――告白の夜と、何ひとつ変わらないその装いに、カローラの胸は静かに痛んだ。
 イリスの表情は穏やかだった。
 けれどその瞳の奥に、何か深く沈んだもの――澄んでいて、なお濁ることのない影が宿っていた。

「……旅立つのね」

 カローラの声は、ほとんど風の音と見紛うほどに静かだった。
 問いかけというよりも、すでに答えを知っている者の、確認のような響き。
 イリスは、ゆっくりと頷いた。
 その首の動きに、迷いも、後悔も、一切の揺らぎはなかった。
 怒りはなく、妬みもなかった。
 かつてカローラが微かに感じ取ったことのある、胸の奥に潜む嫉妬すらも、今は完全に霧散していた。
 そこにあったのは、ただ静かな終着点。
 長い旅の果てにようやく辿り着いた者だけが持つ、深い安らぎと、清らかな諦観だった。

「私は……この十年間、彼と共にいたわ」

 イリスの声は、決して揺れなかった。
 けれどその穏やかな音色の奥には、計り知れない痛みと記憶の重さが滲んでいた。

「彼がどれほど深い闇を歩いてきたのか、誰よりも近くで見ていた。彼の剣の軌跡も、奪った命も、積み重なった罪も……そして、彼の背負ってきた孤独も――」

 カローラは、黙ってその言葉を受け止めるしかなかった。
 一言一言が、心に重く、鋭く突き刺さっていく。
 まるで、それぞれの音が彼女の胸の内側を叩いているように。

「彼が壊れていくのを、私は止められなかったの」

 イリスの声に、ふっと風がかかった。
 まるで、その言葉にさえ彼の痛みの残響が宿っているようだった。

「……人間ではいられなくなっていく彼を。感情を喪っていく彼を。その変化を、ただ黙って見ていることしかできなかった……傍にいたのは、私なのに、ずっと、あななただけを見ていたのだから」

 小さく、イリスは笑った。
 その微笑は、どこまでも透き通っている。
 それは敗北の微笑ではない――すべてを受け入れた者だけが持つ、静かな理解の色だった。

「私には、彼を救う資格なんてなかった。彼を『人間』として繋ぎ止めることもできなかったから。だから、私はただ……彼の罪を、壊すだけの姿を、見ていただけ。彼にとって、それだけの存在だった」

 沈黙が降りる。
 その沈黙は、どちらにとっても苦しみではなく、祈りのようなものだった。

「でも――あなたは違う」

 ふっと息を吸い込み、イリスは再びまっすぐにカローラを見た。
 その瞳には、祈りのような強さが宿っていた。

「あなたは……彼の希望を、信じられる人。彼の魂を、もう一度『人間』に戻せる、唯一の存在」

 その言葉は、カローラの胸の奥に静かに、けれど確実に、痛みとなって突き刺さった。

「……イリス……あなたは……それで、本当にいいの?」

 そう問いかけながらも、カローラは答えを恐れていた。

 イリスは、小さく首を振る。
 そして、語った。

「私は……信じることが怖かったの。彼の奥底に眠る、人ならざる闇が。それでも、傍にはいたわ。でも、ただ『傍観者』でいることしかできなかった」

 外から、ひとすじの風が吹き抜ける。
 白い法衣の裾が、静かに揺れる。
 その揺れは、まるで儀式の最後に降りる幕のようだった。

「……教会に戻るつもり。勇者の従者としてではなくて、ひとりの人間として。罪を知る者として、故郷で静かに生きていきたい……もう、私の役目は終わったから」

 イリスは一歩、後ろに下がった。
 そのわずかな距離が、ふたりの立場の変化を明確に示していた。
 ふたりは、今まさに別の道を選び、歩き出そうとしている。

「……彼を、お願いね」

 イリスの声は、風が触れるようにかすかに、けれど確かな熱を宿して響いた。

「世界で、ただひとりの人間を。彼があなたと共にあることで、ようやく『人』として生きられるように」

 それは、願いでもなく、命令でもなく、彼女にとって、カローラに対する『祈り』のようなものだった。
 深い喪失の果てでようやく辿り着いた、彼女の答えだったでもある。
 その一言を最後に、イリスはふいと背を向ける。
 白い法衣が、ひとひらの花びらのように揺れた。
 歩き出すその背中は、静かで、凛としていた。
 まるで彼女の中に残っていた全ての感情――愛しさも、悔しさも、嫉妬も、後悔も――それらをひとつひとつ、丁寧に置いていった後のように、軽やかだった。
 もう二度と振り返らない。
 自分の役割を終えた者として、潔く、静かに去っていく。

 彼女は、ノワールへの想いのすべてを――この一歩で、確かに埋葬したのだ。

 カローラはその背を、ただ見つめる事しか出来ない。
 言葉をかけようとして、けれど声は出なかった。
 喉の奥に、熱いものがせき止められたように詰まり、どうしても言葉にならなかった。

 何を言えばいい?ありがとう、と?
 それとも、私には無理かもしれない、と?
 どれも、今の彼女の背には似合わないと思った。
 だから――何も言えなかった。

 ただ、胸の奥で確かに感じた。
 何かが交差し、音もなくすれ違い、そして静かに閉じていったのを。
 それは、イリスの『過去』と、カローラの『未来』。
 かつてノワールの隣に立ち、彼を支え、彼の孤独を見つめ続けた者と、これから彼と共に歩き、彼を『人間』として繋ぎとめていく者として。

 そのふたつの想いが、今この瞬間、確かにひとつの場所で触れ合い――そして、別れた。

 静寂の回廊に、足音だけが遠ざかっていく。
 光の柱を通り抜けながら、その姿は徐々に薄れていく。
 まるで、霧の向こうへと溶け込んでいくように。
 カローラは、自分の手を自分の胸に当てた。
 胸の奥で脈打つ鼓動が、静かに、けれど確かに、彼女に言い聞かせていた。

 ──これからが、始まりなのだと。
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