貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

第20話 この手を、二度と離さない

 ――これは、たったひとつの祈りの終わり。
 そして、新たな世界の始まりだった。

 静まり返った夜、月は雲ひとつない空に高く昇り、白銀の光を惜しげもなく地上へ降り注いでいた。
 その光が、屋敷の奥にある古い庭園に、まるで静かな祝福のように広がっている。
 ノワールとカローラは、そこで向かい合っていた。
 月明かりの中に、ふたりの影が静かに寄り添っている。
 そこは、かつてふたりが『出会った』場所だった。
 幼いころの記憶が微かに残る、あの草むらの中。
 貴族と孤児という身分の隔たりすら忘れ、ただ一人の『人』として、初めて言葉を交わした庭。

 十年の歳月を超えて、ふたりは再びその同じ場所に立っている。
 月光に照らされて、木々の葉がさやさやと揺れる音が、沈黙をそっと慰めている。
 ノワールが、静かに口を開いた。

「……お前が笑ってくれるなら、俺は、それだけで生きていける」

 その声には、かすかな震えが混じっている。
 世界を焼き、神を斬った男とは思えないほどに、脆く、繊細な響きだった。

「世界なんかなくても、名誉が消えても、この身が朽ちても構わない。誰に否定されても、嘲られても……お前の笑顔だけが、俺の世界だった。それだけで、俺は何度でも、生まれ変われる」

 彼の手が、ゆっくりと持ち上げられる。
 その指先が、月の光を受けて青白く輝いていた。
 剣すら要らない今、彼はただ――震える手を、カローラへと差し出す。
 『力』ではなく、『心』で触れようとするように。
 その手は、かつて数多の命を奪い、数え切れない咎を背負った手。
 だが今は、ただひとりの少女の『選択』にすがるような、弱さを隠さない手だった。

「……でも、お前が俺を拒むなら――」

 ノワールの声はさらに小さく、風に溶けるようにかすれた。

「そのときは……俺はこのまま消える。世界からも、お前の記憶からも、痕跡ごと消してくれていい……お前が望むなら、俺は、自分を無にする。それで、お前が幸せになれるなら」

 その言葉は、力のない願いではなかった。
 本気だった。すべてを終わらせる覚悟が、静かに、真っすぐに宿っていた。
 カローラは、その手を見つめる。
 あの日、まだ幼くて何も分からなかった自分が、理不尽な理由で手放したその手を。
 十年もの時を、血と孤独と、終わりのない戦いと引き換えに、彼は今また差し出している。
 その手は、あまりに静かで、あまりに重かった。
 カローラの指先が、そっと動き、冷えた空気をすべるようにして、彼の手に触れた。
 そして、まっすぐに、その震える掌を包み込むように、しっかりと握り返す。

「私は──」

 喉がつまったように声が滲んだが、それでも彼女ははっきりと、言葉を選び、放った。

「私は……あなたが大丈夫なら、あなただけの世界に、その住人になる」

 その瞳には、迷いも、恐れもなかった。

「あなたが創ろうとしたその世界を、私と一緒に創ろう。あなたの罪も、優しさも、絶望も、すべて……私の意志で受け止める。もう、誰にも縛られない……私が、あなたと共に歩いていくと、決めたから」

 カローラのその言葉を聞いたノワールの目が、見開かれる。
 その黒い瞳の奥に、揺らぐ光が宿る。
 それは、絶望の海の底で見つけた、たった一つの灯火。
 彼の心を、静かに、けれど確かに救い上げる光だった。
 言葉にならない感情が、彼の中を駆け抜けた。
 世界の重みも、過去の罪も、すべてを赦すような、たった一人の『救い』。

 ノワールは――微笑んだ。

 ぎこちなく、それでも確かに。
 十年ぶりに見せる、彼自身の笑顔。
 それは、最強の勇者の仮面を脱いだ、ひとりの男としての初めての微笑みだった。

「……ありがとう、カローラ」

 その言葉には、十年分の孤独と渇望、すべての感情が滲んでいた。
 彼女の手を、強く、優しく、握り返す。
 掌と掌が重なり、温もりが滲む。
 もう二度と、離すまいと、心が誓う。

 彼と彼女の影が、月明かりの下で重なり、ひとつになっていく。

 神も、国も、誰ひとり知らない場所で、ふたりだけの世界が始まろうとしていた。

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