貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。
第21話 報せの届かぬ地にて
王都から北東へ、馬で十日。
広大な森林ときらめく湖に囲まれた辺境の村──フィオレ。
地図にもほとんど記されることのないその地は、旅人の間でも語られることのない、まるで世界から忘れ去られたような村だった。
その静寂の中に、ノワールとカローラの姿があった。
まるで、世界の喧騒から自らを切り離したかのように、ひっそりと。
この地の朝は霧とともに始まり、夜は風とともに閉じる。
夜明けに現れる乳白色の霧は、すべてを柔らかく包み込み、まるで過去の影すら覆い隠すようだった。
ここには戦も魔獣も届かず、貴族の命令も、王の意志も届かない。
そんな場所で、彼らは人目を避けながら、しかし寄り添うように、静かな日々を送っていた。
ノワールは仮面を外し、黒衣を脱ぎ、勇者という象徴を捨てた。
古びたチュニックに袖を通し、木を割り、水を汲み、畑を耕す。
その鍛え上げられた身体は、土の感触にも驚くほど馴染んでいた。
外から見れば、ただの寡黙な青年。
勤勉で、村人からの信頼も厚い『ひとりの男』だ。
だが――カローラだけは知っていた。
彼の中に今なお残る、世界を斬り裂いた力の残滓を。
触れるものすべてを焼き尽くすほどの、神すら殺せる男の余韻が、彼の沈黙の奥に息づいていることを。
ある日、村の子供が木から落ちて怪我をした。
幼い悲鳴に、村人たちが駆け寄る。
ノワールは黙って傷に手をかざしただけで、血は止まり、腫れも引いていった。
少年はすぐに立ち上がり、笑顔を取り戻した。
「すごい、おじさん!魔法使いみたいだよ!もう痛くない!」
少年の無邪気な声に、ノワールは少しだけ笑った。
それは、かつてカローラだけに見せた、不器用で、しかし心からの微笑みだった。
だがその光景を、カローラは木陰からそっと見つめていた。
彼の優しさを見るたび、胸の奥が締め付けられる。
まるで、それがあまりに眩しくて、手が届かないもののように思えて。
彼は、これからも『人間のふり』をして生きていくのだろう。
世界を壊せるほどの力を封じ、人々と共に汗を流し、穏やかな生活に身を置いて。
それでも、誰よりも深く人を愛し、支え、赦し――そして、恐れられる。
その矛盾に満ちた存在が、ノワールという男だった。
そして、人間のふりをしていくのには、カローラと言う存在があるからこそ、なのかもしれない。
彼女はただ、ノワールを見つめる事しか出来ないのだから。
──夜。
薪が燃える音が、静かな部屋にかすかに響いていた。
暖炉の灯が壁を赤く照らし、木造の小さな家に穏やかな影を落としている。
カローラとノワールは、夕食の卓を囲んでいた。
「今日も、畑に獣が入ったらしいわ。柵を越えて、作物を荒らしたって」
「……明日は囲いを補強する。もう一段高く、強くな」
会話は自然だった。
声の調子に飾り気はなく、何十年も共に生きてきた夫婦のような静けさがあった。
ふと、カローラの視線が彼の手元に落ちる。
使い込まれた木製のスプーンを握る手。
節くれ立ち、筋ばったその指は、だがどこか優雅で、しなやかだった。
その手がかつて、どれほどの命を奪ったのかを彼女は知っている。
神をも斬り、世界をねじ伏せた手。
その手が今、穏やかにスープをすくっている――その光景のあまりの落差に、息が詰まりそうになる。
だが、その背中に寄り添いながら、カローラは思う。
私が彼を止めたわけじゃない。
彼の力を封じたのでも、狂気を鎮めたのでもない。
彼自身が選んだのだ。
この世界を捨て、栄光も、恐れも、名前すら捨てて……私を選んだ。
私はただ、それを受け入れて、ここにいるだけ。
外の世界では今もなお、王や神殿が、彼の物語を歴史から葬ろうとしている。
だがこの家には、それらすべてを超えた時間が流れている。
過去の栄光も、未来の不安も、ここでは意味を持たない。
誰にも知られず、語られず、ただ二人だけの、静かで確かな物語がある。
──報せの届かぬ地にて。
世界に知られぬまま、彼と彼女は、生きていた。
罪ごと、愛しているという静かな覚悟を胸に――それこそが、彼らの新たな世界の、最初の息吹だった。
広大な森林ときらめく湖に囲まれた辺境の村──フィオレ。
地図にもほとんど記されることのないその地は、旅人の間でも語られることのない、まるで世界から忘れ去られたような村だった。
その静寂の中に、ノワールとカローラの姿があった。
まるで、世界の喧騒から自らを切り離したかのように、ひっそりと。
この地の朝は霧とともに始まり、夜は風とともに閉じる。
夜明けに現れる乳白色の霧は、すべてを柔らかく包み込み、まるで過去の影すら覆い隠すようだった。
ここには戦も魔獣も届かず、貴族の命令も、王の意志も届かない。
そんな場所で、彼らは人目を避けながら、しかし寄り添うように、静かな日々を送っていた。
ノワールは仮面を外し、黒衣を脱ぎ、勇者という象徴を捨てた。
古びたチュニックに袖を通し、木を割り、水を汲み、畑を耕す。
その鍛え上げられた身体は、土の感触にも驚くほど馴染んでいた。
外から見れば、ただの寡黙な青年。
勤勉で、村人からの信頼も厚い『ひとりの男』だ。
だが――カローラだけは知っていた。
彼の中に今なお残る、世界を斬り裂いた力の残滓を。
触れるものすべてを焼き尽くすほどの、神すら殺せる男の余韻が、彼の沈黙の奥に息づいていることを。
ある日、村の子供が木から落ちて怪我をした。
幼い悲鳴に、村人たちが駆け寄る。
ノワールは黙って傷に手をかざしただけで、血は止まり、腫れも引いていった。
少年はすぐに立ち上がり、笑顔を取り戻した。
「すごい、おじさん!魔法使いみたいだよ!もう痛くない!」
少年の無邪気な声に、ノワールは少しだけ笑った。
それは、かつてカローラだけに見せた、不器用で、しかし心からの微笑みだった。
だがその光景を、カローラは木陰からそっと見つめていた。
彼の優しさを見るたび、胸の奥が締め付けられる。
まるで、それがあまりに眩しくて、手が届かないもののように思えて。
彼は、これからも『人間のふり』をして生きていくのだろう。
世界を壊せるほどの力を封じ、人々と共に汗を流し、穏やかな生活に身を置いて。
それでも、誰よりも深く人を愛し、支え、赦し――そして、恐れられる。
その矛盾に満ちた存在が、ノワールという男だった。
そして、人間のふりをしていくのには、カローラと言う存在があるからこそ、なのかもしれない。
彼女はただ、ノワールを見つめる事しか出来ないのだから。
──夜。
薪が燃える音が、静かな部屋にかすかに響いていた。
暖炉の灯が壁を赤く照らし、木造の小さな家に穏やかな影を落としている。
カローラとノワールは、夕食の卓を囲んでいた。
「今日も、畑に獣が入ったらしいわ。柵を越えて、作物を荒らしたって」
「……明日は囲いを補強する。もう一段高く、強くな」
会話は自然だった。
声の調子に飾り気はなく、何十年も共に生きてきた夫婦のような静けさがあった。
ふと、カローラの視線が彼の手元に落ちる。
使い込まれた木製のスプーンを握る手。
節くれ立ち、筋ばったその指は、だがどこか優雅で、しなやかだった。
その手がかつて、どれほどの命を奪ったのかを彼女は知っている。
神をも斬り、世界をねじ伏せた手。
その手が今、穏やかにスープをすくっている――その光景のあまりの落差に、息が詰まりそうになる。
だが、その背中に寄り添いながら、カローラは思う。
私が彼を止めたわけじゃない。
彼の力を封じたのでも、狂気を鎮めたのでもない。
彼自身が選んだのだ。
この世界を捨て、栄光も、恐れも、名前すら捨てて……私を選んだ。
私はただ、それを受け入れて、ここにいるだけ。
外の世界では今もなお、王や神殿が、彼の物語を歴史から葬ろうとしている。
だがこの家には、それらすべてを超えた時間が流れている。
過去の栄光も、未来の不安も、ここでは意味を持たない。
誰にも知られず、語られず、ただ二人だけの、静かで確かな物語がある。
──報せの届かぬ地にて。
世界に知られぬまま、彼と彼女は、生きていた。
罪ごと、愛しているという静かな覚悟を胸に――それこそが、彼らの新たな世界の、最初の息吹だった。