貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。
第22話 神なき国、王の独白
王都、ヴァル=エルレア。
かつては信仰と栄光が交差し、神殿の鐘が朝と共に鳴り響いていた都市。
だが今、その鐘は沈黙していた。
白壁の神殿は封印され、門前に立つ者はなくなった。
かつて人々が頭を垂れた英雄の石像は撤去され、その破片が広場の隅に積み上げられている。
「……何もかも、終わったように見えるな」
ローランド王は窓の外を眺めながら、誰にともなく呟いた。
その背中は、王国を支えてきた威厳を失い、ただ老いたひとりの男のそれに変わっていた。
重苦しい静けさの中、若い侍従が声を低くして問う。
「……陛下、記念碑の撤去について、正式な告知を民へ?」
「必要ない。民はすでに……すべてを知っている」
その声には疲れが滲んでいた。
いや、疲労ではない。
もっと深い場所で、何かが決定的に崩れてしまった者の声だった。
「神を斬った男……ノワールという異端の『勇者』を称えようとしたのは、我々自身だ」
王は机の上の羊皮紙に視線を落とした。
それは、かつて彼がノワールに与えた――『望むものを授ける』と書かれた褒賞の誓約書。その下には、今も王自らの署名が残っていた。
「……だというのに、彼が望んだものは、栄光でも、土地でも、地位でもなかった。ただ一人の『女性』だけだったのだ」
室内に微かな緊張が走る。
誰も名を口にしなかった。その名前を出すことが、何か大切なものを壊してしまいそうで。
「我々は……彼を何一つ理解していなかったのだよ」
王は唇を噛み、ゆっくりと言葉を継いだ。
「力だけを見て、利用価値ばかりを量ろうとした……だが、あの男は確かに『人間』だった」
手のひらをそっと空へ向けるように、彼は天を仰いだ。
「神を斬ったその手で、たった一人の女を選んだ。民でも、国家でも、神でもない……彼のすべてを投げ出しても惜しくないと信じた存在を……だが、それが……我々には理解できなかった。否、理解しようとすら、しなかったのだ」
重苦しい沈黙が落ちる。
やがて王は深く息を吐き、椅子に腰を下ろした。そしてぽつりと呟いた。
「……だがな、不思議なものだ」
「彼が『あの娘』を選んだことだけは、なぜか……私の胸に、小さな安堵をもたらしている」
侍従が戸惑いを隠せず、小さく眉をひそめた。
「安堵……に、ございますか?」
「ああ」
王はわずかに微笑んだ。その笑みには、ほのかな寂しさと、ほとんど償いのような想いが滲んでいた。
「あの娘――エヴァレット侯爵家の令嬢カローラは、強い子だった。理不尽な婚約破棄にも、身分を超えた偏見にも、決して涙を見せなかった……私の前ではな。彼女は、どこか最初から覚悟していたようにさえ見えた」
懐かしむような視線を窓の外に向けながら、王は続ける。
「我々が『見限った』者を、あの男は拾い上げた。神殿も王宮も見捨てたあのノワールが、最後に見つけた『救い』が、彼女だった」
「……それだけで、私はもう十分だと思えるのだ」
窓の外には、白い雪が静かに降り始めていた。
音もなく舞い降りる結晶が、街の屋根や石畳を次第に白く染めていく。
まるで過去の過ちを静かに覆い隠すかのように。
「……我々が捨てたものを、彼らが受け継いでくれるのなら」
「それが、たとえ愛という名の狂気であったとしても。あの娘が自ら選んだのなら……もう私には、何も言う資格はない」
誰も言葉を返さなかった。
王は、ゆっくりと羊皮紙を手に取る。
冷たい指先に、わずかに温もりが戻ってきたような気がした。
「罪を贖いたいと願っても、赦されることはない。だが、それでも……祈ってしまうのだ……せめて、あの二人には――あの、世界の果てへと消えていった彼らには」
それきり、王は口を閉ざした。
窓の外の雪を、ただ静かに、長く見つめていた。
それは、『王』としての最後の務めではなかった。
ひとりの老いた男の、償いを込めたささやかな祈りだった。