貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。
第23話 一輪の花と、十年越しの贈り物
その日が近づくと、カローラは朝から落ち着かない心地になる。
辺境の村にも春の兆しが差し始め、窓の外では木々が薄緑の芽を覗かせていた。
鳥たちがさえずり、土の匂いが柔らかく空気に混じる。
冬のあいだ閉ざされていた世界が、再び目を覚ますように、生の気配で満ちていく。
けれど、彼女の心に芽吹くのは、自然の変化ではなかった。
──十年前。
すべてが光に包まれていた、あの眩しい初夏の一日。
小さな庭で、まだ幼い彼に向かって、彼女は無邪気に言ったのだ。
『「守ってね』と。
何の打算も知らない、ただまっすぐな子供の願いとして。
侯爵家の庭園に咲いていた白い花。
彼女はそれを摘み、自分の髪にそっと挿して笑った。
あの時に交わした拙い約束は、今も彼女の胸に、色褪せることなく残っている。
春の訪れと共に、今年もその記憶が彼女の心をやさしく波立たせていた。
辺境のこの村にも、確かに春は訪れる。
夜の霜がゆるみ、凍てついた地面から草が芽吹き、空気にわずかな温もりが宿る。
そして──その季節になると、村の道の向こうから、毎年同じものが届く。
小さな包み――粗末な紙に包まれた手のひらほどのそれは、遠く長い旅をしてきたかのように、うっすらと埃をかぶっていた。
中には、一輪の白い花。
花弁は瑞々しく、まるで今しがた摘まれたかのような新鮮さで、指先に触れれば、朝露の余韻さえ残しているかのようだった。
柔らかな香りが、胸の奥を切なく揺さぶった。
手紙も、差出人の名もない。
言葉ひとつ添えられていない。
けれど、それが誰から届いたのか――カローラには、痛いほどわかっていた。
たった一輪の白い花。
それは、十年を越えても変わらぬ『誓い』の印。
彼が、毎年この日を忘れることなく、どれだけ遠く離れていても、どれほど言葉を交わさずとも、カローラを想い続けてきた証だった。
花びら一枚一枚に、彼の無言の想いが染み込んでいる気がした。
この世界のどこかで、自分が生きていることを、彼は確かに覚えていてくれている。
それだけで、心が熱を帯びた。
カローラはその白い花を、静かに、丁寧に押し花にする。
潰れぬように、壊さぬように、そっと、慈しむように紙に挟む。
そして、古い日記帳の一ページに、今年の記録を書く。
『また届いた』と書きながら、彼女は一年分の小さな出来事を、彼に語りかけるように書き記す。
『ありがとう』と言葉にせずとも、想いは込められている。
彼女の指先には、今なお花の柔らかい感触が残っていた。
この日記には、彼が旅立ってからの十年間、少しずつ綴られてきた言葉がある。
あるいは、書きたくても書けなかったこと。言えなかったこと。心の奥に閉じ込めていた想い。
「あなたに言えなかったこと」
──どれほど臆病だったか、本当の気持ちを伝える勇気がなくて、ただ笑ってごまかしていたこと。
「あの時、私が笑っていれば」
──もし、別の選択をしていたなら、あなたの背を押す代わりに、手を取っていれば、何かが変わっていたのだろうか。
「あなたが去った日の空の色」
──あの雨の中、遠ざかる背中を見て、手を伸ばせなかったが、心では何度も呼んでいた。
「それでも私は、今ここにいる」
──そして、今、私はあなたの傍に生きることを選び、過去の全てを背負って、あなたの未来と共に。
ノワールは問いかけない。
彼はただ、毎年一輪の白い花を贈り続ける。
それが彼にとっての『愛のカタチ』なのだと、カローラは知っている。
彼の愛は、言葉ではない。沈黙の中にある。行動の中にある。
そしてそれが、何よりも深く、強く、確かなものだった。
カローラは返事を書かない。
手紙も、贈り物も、一切送らない。
けれど、日記のページに増えていく白い押し花たちが、語ってくれる。
言葉ではなく、形式でも、証文でもない。
ただ、十年分の『継続』が、この愛の真実を語っていた。
ふたりはかつて、まったく別の道を歩んだ。
一方は地獄をくぐり抜け、もう一方は貴族の檻の中で偽りの幸福を演じていた。
けれど今は違う――白い花が届くたびに、ふたりは同じ道の上に立っている。
思い出は、いつか風化するかもしれない。
記憶は曖昧になり、輪郭を失うこともあるだろう。
だが、続ける事は裏切らない。
毎年同じ日、同じ方法で届けられる白い花。
それが、ふたりの心の距離を証明してくれる。
――今年もまた、春が来た。
窓辺に届いた小包の中で、白い花がひときわ美しく輝いていた。
陽の光を浴びて、それはまるで新たな希望のように、そして何よりも確かな愛の証として、静かにそこに咲いていた。
カローラは、小さく、けれど確かに微笑んだ。
その微笑みには、深く満ちた幸福と、彼への限りない愛が宿っていたのだと感じるほど。
十年分の痛みを抱きしめながら、それでも前へと進もうとする、凛とした強さ――それは、静かに、けれど確実にふたりの新しい春の始まりを告げていた。