貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

第24話 罪と共に生きる

 カローラは、ふと鏡に映る自分の顔を見つめることがある。
 薪の炎が揺れる小さな家の壁にかけられた、小さな銀縁の鏡。
 その中に映るのは、どこか静かに落ち着いた、見慣れないほど柔らかい表情をした自分。
 若くして貴族令嬢と呼ばれ、刺繍のドレスと決まりきった笑顔を着ていたあの頃――政略、名誉、婚約。
 そうした言葉の中で、自分という存在を押しつぶして生きてきた少女は、今ここにはもういない。
 火の灯るこの静かな家で、誰の目にも晒されず、ただひとりの隣で生きている。
 それは、名誉でも義務でもなく、自ら選んだ日常。
 彼の隣に在ること、それだけが、今の彼女の人生だった。

 ノワール。

 嘗て『黒衣の勇者』と呼ばれた男。
 今では、村の誰もがただの一人の男、『ノワール』としか知らない存在。
 彼は薪を割り、土を耕し、雨の日には無言で窓の外を眺めている。
 あまりに静かで、あまりに平凡で――それでいて、彼女だけが知っているのだ。
 平穏の奥に、どれほどの『絶望』と『異常』が潜んでいるかを。

 この男の手は、かつて神を斬った。
 王に膝をつかせ、信仰を捻じ曲げ、人の倫理と秩序を粉砕したその手が、今は温かいスープの鍋をかき回している。
 だが、力は失われていない。
 いや、むしろ――今もなお、世界を終わらせるだけの力を抱えている。
 その全てを、たった一つの『願い』のために。
 自分という存在のためだけに。

 ──狂気にも似た、純粋な執着。

 ある晩、火が赤々と燃える暖炉の前で、カローラは膝を抱えながら、ぽつりとつぶやいた。

「……私を選んだんじゃないのよね」

 ノワールは、振り返らなかった。
 火の中に目を落としたまま、ただ静かに聞いていた。

「あなたが選んだのは、『罪』だった……そうでしょ?」

 ノワールの瞳が、ふとカローラへと向けられる。
 その黒い目は、昔から変わらない。沈黙の中に、すべてを語る目だった。

「世界を壊しても、守りたかったのは……私。ただ、それだけだったんでしょ」

 火の音だけが、部屋に柔らかく響く。
 ノワールは、言葉を持たない男だった。
 けれど、必要なときには、静かに答えてくれる。
 少しだけ視線を逸らしてから、彼は低く呟いた。

「……罪を、選んだ。ああ、そうだ」

 その言葉に、カローラは笑うでもなく、うつむいた。

「でもね、私もそれを知っていて……受け入れたの」

 彼の横顔を見ながら、言葉を続ける。

「正しさなんて、もうどうでもいいのよ。あなたのそばにいられるなら。あなたが誰に否定されても、何を背負っていても、私はただ――」

 言いかけた言葉を、そっと唇の奥で止める。
 ノワールは彼女の方へと向き直り、静かに、しかしはっきりと告げた。

「……それでも、お前が俺の隣にいてくれるのなら」

 言葉の終わりに、火のはぜる音が重なる。
 短く、乾いた響き。
 だがそれが、彼の全てを語っていた。

 『赦されぬモノ』と知りながら、それでも彼女を選んだこと。
 『罰』だとわかっていて、それでもこの生を生きていること。
 カローラはそっと目を閉じ、火の熱に頬を預けるようにして、彼に寄り添った。
 ノワールの体温が、背中越しに伝わってくる。

「――あなたの『罪』は、私の『罪』でもある」

 彼は何も言わない、否定もしない。
 その沈黙は、かつて戦場で剣を振るったときと同じように、重く、厳かだった。
 カローラは『英雄の妻』などではない。
 ノワールが自分自身の『罪』と『狂気』があるからこそ、彼の隣から離れない。
 それは、祝福されるものではない。
 光の中に置かれることも、他人に語ることもない。
 けれど、それでも――

「それで、いいの」

 ふと、ノワールが言葉を落とす。

「……それでも、お前がここにいるなら」
「ええ」

 カローラは小さく頷く。

「私は、ここにいるわ……これからもあなたの隣に。愛という名前で、あなたを包み込むために」

 ノワールは小さく目を細めた。
 その表情には、感情の激しさはない。
 ただ、深い静けさと、長い旅路の果てにようやく見出した、安堵があった。

 夜が深まる――暖炉の薪が静かに音を立て、淡い光を部屋に揺らめかせていた。

 この村の誰も、彼らの正体を知らない。
 嘗て世界を救った英雄も、貴族の血を引く令嬢も、そしてそのどちらでもあるまいとする『罪人』の姿も、この場所には存在しなかった。
 ここにいるのは、ただひと組の人間――ノワールとカローラという、名前のない二人だけだった。
 カローラは、ノワールの背にそっと額を預けた。
 その体温が、冬を越えたばかりの部屋に、確かな温もりをもたらす。
 彼の呼吸は静かで、揺れる暖炉の火の音に紛れてしまうほど微かだった。
 その静けさの中、カローラは祈るように、心の奥でひとつの想いを深く抱いていた。

 ――この愛は、語られなくていい。

 たとえ誰からも祝福されず、たとえ人々に『異端』と呼ばれ、『咎』と断じられることがあっても構わない。
 この愛が世界に知られる必要などない。
 ただ、自分と彼の心の中で、静かに、深く、燃えていけばそれでいい。

 その火が絶えることなく、誰にも汚されずに在り続けるのなら――たとえ、それが歪な形だとしても。

 それでも、愛と呼べるのなら。
 カローラは、自分がここにいる理由を、何度でも見出せた。
 彼の隣に、変わらずに立ち続けること。
 それこそが、彼女にとっての唯一の誇りであり、決して揺るがない真実だった。
 永遠の形など求めず、ただ、今この瞬間が重なっていく日々を、ふたりで紡いでいければそれでいい。
 カローラは、ノワールの背に寄り添ったまま、そっと目を閉じた。

 そこには、かつての戦火も、名誉も、地位も、何ひとつなかった。
 けれど――愛だけが、確かにあった。

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