さよならの勇気~お隣さんはクールで意地悪な産業医~
 昼休みに受けた心の傷は全く癒えておらず、胸の奥が重いままだったけど、個人的なことで業務を止める訳にはいかず、どうにか気持ちを切り替え、午後の仕事に集中した。
 今日中に労働基準監督署に提出する定期健康診断結果報告書を作成する必要があった。提出前に森沢先生にも確認してもらうため、作成した報告書をメールで送り、返信を待ちながら新人の久保さんに労働契約法の説明をしていた。

「さすが一条さん、説明がわかりやすいです!」

 久保さんが大きな目をキラキラさせて言った。素直な言葉に張り詰めていた気持ちが少しだけ軽くなる。
 専門用語は避け、身近な例を入れて、なるべくわかりやすい言葉を使って説明したのが良かったのかもしれない。

「一条さんって労務のプロフェッショナルですよね。私、一条さんみたいに仕事ができるようになりたいです」

 久保さんから憧れるような視線を向けられ、照れくさい。

「ありがとう。私はただ真面目に仕事をしているだけよ」 

 そう久保さんに返した時、後ろから「一条さん」と鋭い声がして、ハッとした。

「森沢先生!」

 久保さんが、まるでアイドルのファンかのように嬉しそうな声を上げた。
 そこに立っていたのは、ワイシャツ姿の森沢先生だった。

「ちょっと今、話せますか?」

 眉間に深い皺を刻んだ先生の深刻な表情に嫌な予感がする。
 報告書の件以外に何かあったのだうろか。午前中に面談をお願いしていた長時間労働の社員についてだろうか。
 
「はい。大丈夫です」
「僕のオフィスに来てください」

 それだけ言うと、先生は、私の返事も聞かずに踵を返して、歩き出した。
 ノートパソコンを持って慌てて席を立つが、もう先生の姿はなく、私も急ぎ足でオフィスを出た。
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