さよならの勇気~お隣さんはクールで意地悪な産業医~
「もう昼休みだぞ」

 ドアの向こうの声にハッとする。
 今は石黒くんに会えない。きっと石黒くんに会ったら感情的になって、酷いことを口にする。そんな私を石黒くんに見せて、嫌われたくない。そう思い、踵を返し、その場から逃げ出した。

 休憩室も社員食堂も石黒くんと遭遇する可能性があるから、7階の資料室まで逃げて来た。
 ここに来る社員はあまりいないので、一人になって気持ちを静めるのに最適な場所だった。

 中に入ると、思った通り誰もいなかったので、ほっとした。
 壁に並ぶ、グレーの無機質なスチール製の棚にはナンバリングされたファイルが整然と並んでいて、部屋の中央には閲覧用のデスクが置かれていた。

 私はデスク前に座り、息をついた。
 とにかく気持ちを落ち着けようと思った時、ポタポタとデスクに涙が零れ落ちた。泣いちゃダメだと思うけど、今日はもう限界だ。

 石黒くんの言葉を真に受けて、家賃の高い所に引っ越した自分が情けない。石黒くんも同じ気持ちだと思っていたのに、同棲に浮かれていたのは私だけだったんだ。彼の気持ちに気づけなかった自分が嫌になる。

 そうだよね。冷静に考えればわかるよね。石黒くん、不動産屋には行かなかったもの。いつも私が一人で物件を見て回って、それを石黒くんに報告していた。駅徒歩5分以内の新築で、オートロック付きの2LDKがいい、なんて高い条件を提示したのは私に同棲を諦めさせる為だったのかもしれない。そんな好条件の物件は私一人では家賃払えないもの。深夜のファミレスでバイトまでして、石黒くんを待っていた自分が笑える。私、何やっているんだろう……。

 だけど――。

 それでも、石黒くんと別れたくない。こんな私を好きだと言ってくれたのは、彼だけだったから。一度手にした幸せを失いたくない。このままフェードアウトなんて絶対に嫌だ。
< 20 / 42 >

この作品をシェア

pagetop