神様はもういない
「いってきます」
「いってらっしゃ〜い」
 朝、会社へ行く私を明るく送り出してくれる湊。
 大体、自分は会社に行けないどころかこの家から出られない事実を、彼はどう認識しているのだろうか。怖くて直接聞くことはできなかった。
「あ、あゆりちょっと待って」
 玄関扉を開けようとしたところで、呼び止められる。
「なに?」
「今日も一日頑張ってな」
 彼が、私の顎をくいと持ち上げて、そのまま顔を近づけてくる。
も、もしかして、キス……!? 
反射的に頭に浮かんだのは、もちろん雅也の顔だ。咄嗟にぎゅっと目を瞑る。湊の唇は、私の口ではなく頬に触れていた。
「朝だからね。これぐらいでちょうどいいでしょ」
 ニヤリとからかうように笑う湊に、かぁぁっと耳まで熱くなる私。
「もう、いじわる〜!」
 むっとしながらも、心の中ではドクドクと心音が高鳴っていることに気づいていた。
 おかしい。
 私には雅也という素敵な恋人がいるのに。
 なんで……ほっぺにキスされたぐらいで、ときめいてしまうの。
 こんなの変だ。異常だ。だめだよ。
 頭ではそう思うのに、心のどこかでは嬉しくて温かい気持ちがじわりと広がっていることに気づいた。馬鹿みたいに明るくて私のことが好きな湊。仕事でうまくいかなくて悶々としている私の心を、ありえない速さで溶かしていく。
「今度こそ、いってきます」
「うん、いってらっしゃい」
 もう湊の顔を直視することができなかった。こんな朝が一週間も続いている。湊に会うたびに、湊と話すたびに、明日はもっと上手く仕事ができると思わされる。と同時に、胸に甘やかなときめきと切なさがどんどん広がっていく。
「雅也……」
 自宅から一歩踏み出して、大事なひとの名前をつぶやいてみる。
 だけど、どういうわけか、込み上げてくるのは愛しさよりも申し訳ないという気持ちだった。
 だめだよ私。
 私の彼氏は雅也だ。これ以上、湊に近づいてはいけない。第一、あんな感じだけど彼は幽霊だ。ずっと一緒にいたら、きっと私の身によくないことが起きる——。
 そう言い聞かせることでしか、湊と離れる未来を想像することができなくて、また慌てて首を振って歩き出した。

< 15 / 46 >

この作品をシェア

pagetop