私と御曹司の始まらない恋の一部始終

第10話 怪我をした彼

何が起きたの?
たしかワイヤーが切れてサンドバックが揺れていて……それで誰かの声がして……。
杏奈が茫然としていると
「大丈夫ですか!」
三山タイシが駆け寄り、田鍋ケイイチロウを抱き起した。ケイイチロウの額から血が流れている。
「たい(し様)」
呼びかけた三山タイシを、田鍋ケイイチロウがすっと制し、
「問題ない。それより杏奈は無事か?」
三山タイシが杏奈を見る。杏奈は大丈夫の意味でうなずいた。
「無事ですよ」
「そうか、よかった。悪いが俺を医務室まで連れて行ってくれないか」
「はい!」
三山君が田鍋君の腕を自分の肩にまわさせ立ち上がった。
「待って」
田鍋君が杏奈のほうを振り返る。
「……ありがとう」
田鍋君は笑みを浮かべて出て行った。

「落ち着いた?」
あのあと、怪我こそしていないものの自力で立ち上がれなかった杏奈を、ウタちゃんが支えながら医務室まで連れて来てくれた。田鍋君もいるかと思ったが、三山君が大事をとって早退させていて二人ともいなかった。
「うん、もう平気」
ウタちゃんの話では、客席の上まで動かしていたサンドバックのワイヤーが急に1本切れてコントロールを失い、残る1本では支えきれず客席に向かって振り子のように飛んでいったという。田鍋君はワイヤーが1本切れた時点で危険を予見し、客席にいた杏奈の方へ走り、杏奈をかばってサンドバックを背中で受け止め、体ごと飛ばされたのだ。
 照明係のウタちゃんは一部始終を目撃していたが、あっという間の出来事で杏奈に危険を知らせることもできなかったという。
「ごめんなさい」
苦しそうに謝るウタちゃんだったけど、もし声をかけてくれたとしても、杏奈はよけることなんてできなかっただろう。田鍋君が杏奈を守ってくれなかったらどうなっていたか。
 一方で、ウタちゃんと一緒にいた三山君はいつのまにか客席に降りて田鍋君をすばやく救助したという。
「田鍋君、怪我してたみたいだけど」
「きっと大丈夫よ、それに杏奈ちゃんが責任を感じる必要はなくってよ」
ウタちゃんは優しい。でも杏奈はどうしても額から血を流していた田鍋ケイイチロウのことが脳裏に焼き付いて離れなかった。

 圭一郎は待機していたロールスロイスの後部座席に大紫を座らせた。
それまでは恰好つけていた大紫が途端に
「痛い……」
と訴えだす。
「大紫様、本当に申し訳ありません。私があの場を離れていなければ、大紫様がお怪我することもありませんでしたのに」
「なにを言ってるんだ、圭一郎が客席にいたらやっぱり俺は助けにいっていた。同じことだ」
「大紫様……」
圭一郎は感動でいっぱいになっていた。
「自分にとって一番大事なものは何か、はっきりと気づきました。でも今はとりあえず病院へ行きましょう」
「だめだ。たいした怪我じゃない、骨は折れていないと思う。家に帰って圭一郎が手当してくれ」
大紫は専属の運転手に、家へ向かうように命じた。

「そーっとだぞ、そーっと……痛い! しみる!」
帰宅して自室に戻った大紫は顔の擦り傷に消毒液を付けられ、悶絶していた。
「次は背中に湿布を貼りましょう。自分でお脱げになれますか」
「……痛くて無理だ。脱がせてくれ」
圭一郎は大紫の手をとった。
「痛い」
「……手首もねん挫していますね。やはり病院に行くべきでは?」
「だめだ、父上と母上にバレて大ごとになるだろう」
「ですが」
「ワイヤーアクションをやりたがったのは俺だ。そのせいで同じクラスの女子が怪我をしそうになった。学園に交渉した詩子にも迷惑がかかる。操作していた大山が責められるかもしれない。それに学園祭そのものが中止になったらどうする? ここは大ごとにしないほうがいい。明日は普通に登校するからな」
「それはダメです! 学園にほうにはわたくしが連絡し、誰にも責任を負わせず、問題にもならないように手配いたします。ですから大紫様はゆっくり休まれてください。圭一郎の心からのお願いです」
圭一郎の必死の懇願に、大紫はしぶしぶ同意した。
「わかった。明日一日だけ休むとしよう」

「杏姉ちゃま、お元気ないの?」
スクールバスを待ちながら游と手をつないでいると、游が杏奈をみあげて聞いてきた。
「え?」
「そうよ、お姉ちゃま、昨日からおかしいわ」
響も言う。
「そんなことないよ、元気元気! あ、バス来たよ」
響と游をバスの乗せてしまうと、杏奈はため息をついた。昨日からずっと田鍋ケイイチロウのことが気になって仕方ないのだ。
 昨夜チャットアプリで怪我の具合を尋ねると、筋肉マッチョのスタンプが返ってきた。元気なのかなと思うけど、会ってみないとわからない。虚勢を張っているだけな気がする。
 杏奈は「ある準備」をして学園に向かった。

 公共のバスと徒歩で学園に着くと、教室には三山君とウタちゃんがいて、なにか真剣に話し込んでいた。
どういうこと? いつの間に二人はあんな親密に?
「杏奈ちゃん?」
ウタちゃんに気づかれ、杏奈はおずおずと教室に入っていく。
「昨日はゆっくり眠れた?」
「うん……」
「佐藤さん、お怪我がありませんでしたか? 昨日は先に帰ってしまい申し訳ありませんでした」
三山君が心配そうに杏奈をみる。
「大丈夫。それより田鍋君は?」
「タ……ケイイチロウなら問題ありません。今日は一日休みますが、明日には登校しますよ」
「よかった……」
「佐藤さん、今回の事はワイヤーアクションを提案した私共の責任です。今そのことを善財さんにもご説明しておりました。本当に申し訳ありませんでした」
三山君が心から謝罪してくれているのが伝わってくる。
ワイヤーアクションを言い出したのは田鍋君なのに、やっぱり大財閥の御曹司は人間としての出来が違うのだろうか。
 イケメンで紳士的でやさしくて、性格も良くて器も大きい。悪いところが一つもない。推せる……。こんな人と結婚出来たら幸せにしかならない。
 でも、なんだろうこのモヤモヤは?
杏奈の脳裏に、杏奈をかばってサンドバックを受け止め倒れ込んだ田鍋ケイイチロウの姿が浮かぶ。怪我をしながらも杏奈に呼び止められて振り向いたときのケイイチロウの笑みが、昨日からずっと頭を離れないのだ。
 痛くなかったはずがない。
なのに杏奈を心配させまいと格好つけて笑ったのだ。田鍋君はそういう人だ。
 ほんと、馬鹿みたい。でも……。
「三山君、私、田鍋君のお見舞いに行きたいの。今日の放課後、田鍋君の家に連れていってくれない?」
「?!」
三山タイシが瞬きも忘れて驚いている。ウタちゃんも口があいたままになっている。
 今朝お見舞いを思いついた時、杏奈自身もどうかとは思ったのだ。でも田鍋君の元気な姿を見るまで、どうしても心が落ち着かない。
 杏奈はもう一度「お願い!」と三山タイシに頭を下げた。
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