私と御曹司の始まらない恋の一部始終
第15話 涙の波紋
桜月がワイヤーにわざと傷をつけたことを認めた。
サンドバックが不安定に揺れて、舞台監督の三山君や主役の田鍋君といろいろ話せればいいなと思っただけだと言い訳したらしい。
サンドバックを客席の上まで移動させることになったことも、ワイヤーが切れてしまうほど深い傷をつけてしまったのも想定外だったという。
だから田鍋ケイイチロウが怪我をしたのを見て怖くなってしまい、すべて杏奈のせいにして責任をなすりつけたのだった。
ウタちゃんと三山君からは、すべての事情を説明されたあと、学園祭が中止にならないよう桜月のしたことを内密にできないかと相談を受けた。
「杏奈ちゃんが許せないと思うのは当然だから、学園に報告したいなら止めることはできないわ」
ウタちゃんは杏奈の気持ちを大事にしたいと言ってくれた。
「私は構わない。だって怪我をした田鍋君が許しているんだから」
「ありがあとう杏奈ちゃん。あなたの心の広さに感動したわ」
杏奈にしてみればS組から追い出されずに済むのならそれでよく、大ごとにするメリットはない。
それに桜月は急遽カナダへ短期留学に行くことになったという。
「佐藤さんにそう言っていただけると大変有難いです。わたしどもにとっては初めての学園祭なので」
三山君がにっこりと笑う。
そうよ、学園祭で三山君と恋の花を咲かせるためにも、中止なんて困るのだ。
「それでね、桜月が留学に行ってしまうから、杏奈ちゃんにキャストをやってほしいの」
桜月は準主役の小鹿役だった。
それを私が?
田鍋君と一緒に舞台に……?
杏奈は急に胸がドキドキしてきた。
家に帰って洗濯に掃除にと忙しくしていると、妹の響と弟の游がピアノのレッスンから帰ってきた。游はピアノより先生のご主人にチェスを習うのが楽しみらしい。
「おかえり。すぐ夕飯にするね」
「私、お姉ちゃまのラーメン大好き」
「僕も!」
「まずは手を洗ってね」
「そうだお姉ちゃま、先生がこれを渡してって」
響きがバッグから封筒をだす。
何だろう? 封を開け、一人で中を見た杏奈は言葉を失った。
響と游の月謝が支払われていない?!
それはやんわりと催促する手紙だった。
どうして? ピアノの月謝は両親の銀行口座から自動振り込みになっていたはずだ。
まさか……銀行口座が差し押さえられた? それとも残高が足りなくなった?
暗証番号がわからないから、ネットバンキングで残高を調べることもできない。通帳そのものも両親が持っていってしまったし、調べようがなかった。
でもとにかくこれは緊急事態だ。電気に水道代、スマホだって同じ口座から引き落としになっていたはずだ。
ネットで調べると、電気や水道料金は生命の維持に関わるから支払いが遅れてもすぐに止められることはないみたいだ。よかった……。
でも猶予期間のうちに何とかしないと。スマホ代はちゃんと払わないと困ったことになりそうだし、状況が逼迫しているのは変わらない。
やっぱりアルバイトをしたほうがいいのだろうか。
でも響と游のお世話をし、学園祭ではキャストになり、日下部雪華の不登校の解消もしなくちゃいけなくて……今の杏奈はやることが多すぎて、アルバイトの時間がとれそうにない。
それに2か月少しのうちに、五千万円の借金を返済しなければそもそも露頭に迷うのだ。そう考えるとやっぱり三山家の御曹司との婚約以外ない。
幸いなことに三山君とは文化祭の準備で親しくなっている。家にも行ってラーメンを作ったり、桜月のフェイク動画を見破ってくれたのも三山君だ。ピンチはチャンス。ここはお礼を兼ねてデートに誘って……。
まただ、おかしい。
どうしてここで田鍋君が出てきちゃうの?
杏奈は三山タイシのことを思い浮かべようとして、なぜか田鍋ケイイチロウのことを思い出してしまう自分に驚く。サンドバックから守ってくれたときのこと、ラーメンを美味しそうに食べ褒めてくれたときのこと。そして……手をつないだ感触。
杏奈を抱きかかえてくれた時の安心感。
あの時、おもいがけず涙があふれ出た。田鍋君は驚いてハンカチを出してくれた。そして流暢な英語でつぶやいたのだ。
「 There is a …… in tears ……」
よく聞き取れなかったけど、tears……涙がなんとかって言っていたと思う。私の涙を見て、何を
言ったのだろう?
そういえば、と杏奈はS組に編入したときのことを思いだした。
あの時は女子グループの頂点にいるウタちゃんに図々しく話しかけ、意地悪い対応をされて泣いているところを三山君に見せる、なんてことを計画していたっけ。ウタちゃんが優しい女の子で計画は失敗したけれど。
あの涙を田鍋君ではなく、三山君に見てもらえばよかったのかな。そうしたら三山君の心に私が入りこめたかもしれないのに。
でもあの時、田鍋君は私を抱きかかえながらなんて言ったんだろう。
うわあ、だめだめ。また田鍋君の顔ばかり浮かんでしまう!
杏奈は気を取り直して、夕食のラーメン作りにとりかかった。
でもラーメンを作ればまた、おいしそうに食べていた田鍋ケイイチロウのことを思い出してしまうのだ。
「 There is a sacredness in tears. 」
”涙には神聖さがある“ 三山大紫は読んでいた本を閉じてつぶやいた。
「 They are not a mark of weakness, but of power. 涙は弱さではなく力の印。ワシントン・アーヴィングですね」
大紫にハーブティーを運んできた圭一郎が、続きを言った。
「うむ。まだ続きがあったな。涙は一万の言語より雄弁に語る。圧倒的な悲しみ、深い悔恨、そして言葉にできない……」
大紫は言いとどまった。
圭一郎は不思議そうな顔で、大紫が言わない最後の言葉を口にする。
「愛です。言葉にできない愛を伝えるものである」
「ばかばかしい! 涙などただの体液だ」
「どうなさいました大紫様?」
「どうもしない!」
三山大紫はハーブティーを勢いよく飲んで
「熱い!」
といい、ますます不機嫌になった。
「熱すぎるぞ、圭一郎」
「申し訳ございません」
圭一郎はそんな大紫の様子をそっと観察しながら
「そういえば、城之内桜月さんから気になることを聞きました。あのフェイク動画は城之内さんが作成したものではないそうです」
「どういうことだ?」
「城之内さんの元にQRコードが送られてきて、それを読み取ったらあの動画が出てきたと言うのです。自分がワイヤーを傷つけたのに、佐藤杏奈さんがしたことになっていて驚いたと」
「それで杏奈を犯人にすることにしたのか。ひどい話だ」
「ええ。ですが城之内さんの犯行動画を撮影しておきながら、佐藤杏奈さんにすり替えた人間がいるということです」
「杏奈を陥れようとしている人間がほかにもいる、と」
「そのようです」
三山大紫は。大粒の涙を流していた杏奈を思い浮かべた。もうあの涙を見たくない。
There is a sacredness in tears.
涙には神聖さがある。涙は一万の言語より雄弁に語る。
自分は杏奈の涙から何を受け止めてしまったのだろう。大紫は胸のざわつきに戸惑っていた。
サンドバックが不安定に揺れて、舞台監督の三山君や主役の田鍋君といろいろ話せればいいなと思っただけだと言い訳したらしい。
サンドバックを客席の上まで移動させることになったことも、ワイヤーが切れてしまうほど深い傷をつけてしまったのも想定外だったという。
だから田鍋ケイイチロウが怪我をしたのを見て怖くなってしまい、すべて杏奈のせいにして責任をなすりつけたのだった。
ウタちゃんと三山君からは、すべての事情を説明されたあと、学園祭が中止にならないよう桜月のしたことを内密にできないかと相談を受けた。
「杏奈ちゃんが許せないと思うのは当然だから、学園に報告したいなら止めることはできないわ」
ウタちゃんは杏奈の気持ちを大事にしたいと言ってくれた。
「私は構わない。だって怪我をした田鍋君が許しているんだから」
「ありがあとう杏奈ちゃん。あなたの心の広さに感動したわ」
杏奈にしてみればS組から追い出されずに済むのならそれでよく、大ごとにするメリットはない。
それに桜月は急遽カナダへ短期留学に行くことになったという。
「佐藤さんにそう言っていただけると大変有難いです。わたしどもにとっては初めての学園祭なので」
三山君がにっこりと笑う。
そうよ、学園祭で三山君と恋の花を咲かせるためにも、中止なんて困るのだ。
「それでね、桜月が留学に行ってしまうから、杏奈ちゃんにキャストをやってほしいの」
桜月は準主役の小鹿役だった。
それを私が?
田鍋君と一緒に舞台に……?
杏奈は急に胸がドキドキしてきた。
家に帰って洗濯に掃除にと忙しくしていると、妹の響と弟の游がピアノのレッスンから帰ってきた。游はピアノより先生のご主人にチェスを習うのが楽しみらしい。
「おかえり。すぐ夕飯にするね」
「私、お姉ちゃまのラーメン大好き」
「僕も!」
「まずは手を洗ってね」
「そうだお姉ちゃま、先生がこれを渡してって」
響きがバッグから封筒をだす。
何だろう? 封を開け、一人で中を見た杏奈は言葉を失った。
響と游の月謝が支払われていない?!
それはやんわりと催促する手紙だった。
どうして? ピアノの月謝は両親の銀行口座から自動振り込みになっていたはずだ。
まさか……銀行口座が差し押さえられた? それとも残高が足りなくなった?
暗証番号がわからないから、ネットバンキングで残高を調べることもできない。通帳そのものも両親が持っていってしまったし、調べようがなかった。
でもとにかくこれは緊急事態だ。電気に水道代、スマホだって同じ口座から引き落としになっていたはずだ。
ネットで調べると、電気や水道料金は生命の維持に関わるから支払いが遅れてもすぐに止められることはないみたいだ。よかった……。
でも猶予期間のうちに何とかしないと。スマホ代はちゃんと払わないと困ったことになりそうだし、状況が逼迫しているのは変わらない。
やっぱりアルバイトをしたほうがいいのだろうか。
でも響と游のお世話をし、学園祭ではキャストになり、日下部雪華の不登校の解消もしなくちゃいけなくて……今の杏奈はやることが多すぎて、アルバイトの時間がとれそうにない。
それに2か月少しのうちに、五千万円の借金を返済しなければそもそも露頭に迷うのだ。そう考えるとやっぱり三山家の御曹司との婚約以外ない。
幸いなことに三山君とは文化祭の準備で親しくなっている。家にも行ってラーメンを作ったり、桜月のフェイク動画を見破ってくれたのも三山君だ。ピンチはチャンス。ここはお礼を兼ねてデートに誘って……。
まただ、おかしい。
どうしてここで田鍋君が出てきちゃうの?
杏奈は三山タイシのことを思い浮かべようとして、なぜか田鍋ケイイチロウのことを思い出してしまう自分に驚く。サンドバックから守ってくれたときのこと、ラーメンを美味しそうに食べ褒めてくれたときのこと。そして……手をつないだ感触。
杏奈を抱きかかえてくれた時の安心感。
あの時、おもいがけず涙があふれ出た。田鍋君は驚いてハンカチを出してくれた。そして流暢な英語でつぶやいたのだ。
「 There is a …… in tears ……」
よく聞き取れなかったけど、tears……涙がなんとかって言っていたと思う。私の涙を見て、何を
言ったのだろう?
そういえば、と杏奈はS組に編入したときのことを思いだした。
あの時は女子グループの頂点にいるウタちゃんに図々しく話しかけ、意地悪い対応をされて泣いているところを三山君に見せる、なんてことを計画していたっけ。ウタちゃんが優しい女の子で計画は失敗したけれど。
あの涙を田鍋君ではなく、三山君に見てもらえばよかったのかな。そうしたら三山君の心に私が入りこめたかもしれないのに。
でもあの時、田鍋君は私を抱きかかえながらなんて言ったんだろう。
うわあ、だめだめ。また田鍋君の顔ばかり浮かんでしまう!
杏奈は気を取り直して、夕食のラーメン作りにとりかかった。
でもラーメンを作ればまた、おいしそうに食べていた田鍋ケイイチロウのことを思い出してしまうのだ。
「 There is a sacredness in tears. 」
”涙には神聖さがある“ 三山大紫は読んでいた本を閉じてつぶやいた。
「 They are not a mark of weakness, but of power. 涙は弱さではなく力の印。ワシントン・アーヴィングですね」
大紫にハーブティーを運んできた圭一郎が、続きを言った。
「うむ。まだ続きがあったな。涙は一万の言語より雄弁に語る。圧倒的な悲しみ、深い悔恨、そして言葉にできない……」
大紫は言いとどまった。
圭一郎は不思議そうな顔で、大紫が言わない最後の言葉を口にする。
「愛です。言葉にできない愛を伝えるものである」
「ばかばかしい! 涙などただの体液だ」
「どうなさいました大紫様?」
「どうもしない!」
三山大紫はハーブティーを勢いよく飲んで
「熱い!」
といい、ますます不機嫌になった。
「熱すぎるぞ、圭一郎」
「申し訳ございません」
圭一郎はそんな大紫の様子をそっと観察しながら
「そういえば、城之内桜月さんから気になることを聞きました。あのフェイク動画は城之内さんが作成したものではないそうです」
「どういうことだ?」
「城之内さんの元にQRコードが送られてきて、それを読み取ったらあの動画が出てきたと言うのです。自分がワイヤーを傷つけたのに、佐藤杏奈さんがしたことになっていて驚いたと」
「それで杏奈を犯人にすることにしたのか。ひどい話だ」
「ええ。ですが城之内さんの犯行動画を撮影しておきながら、佐藤杏奈さんにすり替えた人間がいるということです」
「杏奈を陥れようとしている人間がほかにもいる、と」
「そのようです」
三山大紫は。大粒の涙を流していた杏奈を思い浮かべた。もうあの涙を見たくない。
There is a sacredness in tears.
涙には神聖さがある。涙は一万の言語より雄弁に語る。
自分は杏奈の涙から何を受け止めてしまったのだろう。大紫は胸のざわつきに戸惑っていた。