私と御曹司の始まらない恋の一部始終

第16話 キャスト交代と新たな事故

響と游のピアノの月謝を支払うため、杏奈はフリマアプリを利用することにした。
かといって金目のものはもうない。事業がうまくいっている時に父が買い集めた高級腕時計も、母のブランドバックもとっくになくなっている。
 杏奈が目を付けたのは、響と游の着られなくなった子供服だ。
杏奈が小さいころは裕福ではなかったので、杏奈の子供服は格安量販店のものだった。汚しても怒られないし、成長して着られなくなった頃にはヨレヨレになっていた。だが響が生まれる頃には事業が上手くいき始めたので、肌着はオーガニックコットンだし、パリコレやミラノコレクションに出るようなハイブランドの子供服が買い与えられていたのだ。
「うわあ懐かしい。ひびき、このお洋服大好きだったの」
「今日、これ着たい!」
「游は大きくなったから、もう入らないよ」
響と游が昔のお洋服を懐かしむ横で、杏奈はハイブランド子供服を写真に撮り、フリマアプリにアップしていく。
どうかこれが売れてピアノの月謝が払えますように。

「私がキャスト?! 準主役なんて無理!」
ウタちゃんからキャストをやってくれないかと頼まれた時、杏奈はとっさに断った、
「でも杏奈ちゃんしかいないのよ、セリフだって覚えてるでしょう?」
準主役だった桜月が逃げるように短期留学にいってしまい、その穴を埋められるのは脚本係で学園祭当日の仕事がない杏奈しかいない。それはわかっているのだけど。
「お願い」
「私からもお願いします」
ウタちゃんと三山君に頼まれてしまうと断れない。
だが、相手役は当然、田鍋ケイイチロウだ、
「杏奈が小鹿役をやるのか、俺の足を引っ張るなよ」
「そっちこそ台詞を飛ばさないでよね」
ここ数日、田鍋ケイイチロウとはこんな感じだ。
ケイイチロウがぶっきらぼうな態度で接して来るので、杏奈も売り言葉に買い言葉で返してしまう。
桜月がワイヤーを傷つけた犯人だと突き止めた日、私の手をひいて音楽室へ連れて行ったくせに。倒れそうになった私を抱きとめてくれたくせに。
 あのときのやさしさはどこに?!
急にキャストをやることになって緊張している杏奈に対して、親切心のカケラも感じさせない態度!
 なんなのだ。田鍋ケイイチロウのことを気にかけてしまった時間がもったいない。
まあ私にとって大事なのは三山家の御曹司、三山タイシ君なんだから、田鍋ケイイチロウのことなんてどうだっていいのよ。
そうは思ってもケイイチロウが何か言ったり移動したりするたびに、聞こえてきちゃうし目で追ってしまう。
アイツ、声が大きいのよ。背が高いのよ。そのせい!それだけ!
 ピコン。
スマホの通知音に気づいた杏奈は、ロックを解除した。
「おい、もうすぐ俺たちの出番だぞ」
田鍋ケイイチロウに言われたが
「わかってる、ちょっとだけ」
と杏奈はフリマアプリを開く。
 売れてる! 響のお洋服が3点、游の子供服も1点売れていた。合計でいくらになるかな……杏奈が頭の中で計算していると
「危ない!」
振り返ると、舞台袖に置かれていた大道具のセットが杏奈めがけて倒れてきた。
「!」
 杏奈は逃げることもできず、目をつぶった。
「……?」
そっと目をあけると、田鍋ケイイチロウがセットを懸命に支えていた。
「田鍋君……!」
「早く離れろ」
「でも」
三山君が走って来て田鍋君と一緒にセットを押し戻す。
「佐藤さんはどこか安全なところへ」
「うん」
杏奈と入れ替わりに他の男子生徒が手伝いにやってきて、事故にならずにすんだ。
「ありがとう」
震える声で杏奈が言うと
「練習中にスマホなんか見ているからだ」
と田鍋君は怒って出て行った。
そんなふうに言わなくてもいいじゃない、杏奈は思ったけれど、また助けてもらったと思ったら胸の奥がズキンと痛んだ。

 翌日、学園に行くとウタちゃんから主役の交代が発表された。
「本番も近いのに残念ですが、主役が田鍋ケイイチロウ君から三山タイシ君に交代することになりました」
田鍋ケイイチロウは昨日倒れた大道具を支えようとして手首を痛めたらしい。包帯を巻いている。
「まあそういうことだ、みんな、すまない!」
田鍋ケイイチロウが明るい声で言う。代役は監督をしていた三山君しかいないのだろう。
「急なことではありますが精一杯やらせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
三山君が折り目正しくみんなに挨拶したあと
「佐藤さん、代役同士いっしょにがんばりましょう」
と杏奈に右手を差し出した。
「ええ、こちらこそ」
杏奈は三山君の手を握り、握手を交わす。
三山家の御曹司が主役で私が準主役! これは願ったり叶ったりの大チャンス! 
今からでも台本をライオンと小鹿のラブストーリーに変えたい。ここで一気に恋仲になって、婚約者に一直線だ。
 でもなぜだろう。杏奈は三山タイシとの握手の感覚より、田鍋ケイイチロウと手をつないだ感触を思い出してしまう。ケイイチロウがまた自分のために怪我をしてしまった。そのせいで楽しみにしていた主役まで降りてしまった。私のせいで……。
 ズキン。また胸の奥が痛くなった。

「なんで俺が主役を降りなきゃいけないんだ」
昨夜の事である。田鍋ケイイチロウこと本物の三山大紫は、執事の圭一郎に主役を交代しろと言われて憤慨していた。
「今日の事故ももしかすると佐藤杏奈さんを狙ったものかもしれません」
大紫も、ただの事故ではないかもと薄々疑ってはいた。だが
「それと俺の降板は関係ないと思うが」
「ですがまた佐藤さんが狙われれば、大紫様はまた身を挺してお助けになるでしょう。わたくしはそれを心配しております」
「ふん、別に杏奈だから助けたわけじゃないからな」
「わかっております。大紫様は博愛のお心を持ったお方ですから。ですが大紫様になにかあればわたくしの責任です」
「大丈夫だ、今日だって怪我などしてないだろう」
「次はどうかわかりません。それでわたくしに考えがございます」
圭一郎は、田鍋ケイイチロウが今日の事故で怪我をしたことにして、代わりに三山タイシとして自分が代役となり、準主役の佐藤杏奈のそばにいると提案してきた。
そうすれば三山家の御曹司に怪我をさせるわけにいかないので、犯人も容易には佐藤杏奈に手は出せまい、というのだった。
「犯人は三山タイシが怪我しようと何とも思わない奴かもしれないぞ」
「その時はわたくしが怪我をするだけです」
「だめじゃないか」
「いいえ、大紫様が怪我をされるよりずっといいです。今日もわたくしは生きた心地がしませんでした」
そこまで言われると、大紫も圭一郎の職務を考えてしまう。執事の田鍋家の長男として圭一郎が背負っている責任を考えれば、大紫が無茶をするのは圭一郎を苦しめるだけだ。
「主役を交代するのは練習中だけで構いません。本番当日は大紫様が田鍋ケイイチロウとして舞台に復帰されれば良いのです」
「なるほど。さすが圭一郎、名案だな」
「ありがとうございます。では明日は包帯でも巻いて、怪我をしたことにして登校いたしましょう」
「うむ」
大紫が圭一郎の提案を受け入れたのには別の理由もあった。
杏奈の涙を見たあとから、なんとなく調子がよくないのだ。
英国パブリックスクールでは、女子に対しては礼儀正しく敬意を払うよう教えられてきた。だがレディファーストなどかつては英国紳士にとって当たり前の振る舞いが、最近では前時代的で差別的だと思われることも理解している。それゆえ大紫はクラスメートとなった女子に対して、英国時代の男子同級生に対していたのと同じように、フランクな振る舞いをとるようにしていたのである。自分が女性に不慣れであることを隠すためにも「男子同級生と同じように」接するよう心掛けたのは良策だったと思っている。
 ところがだ。
あの日手をとって引っ張っていった時も、崩れ落ちそうになるのを抱きとめた時も、
 なんという細さだ……!
大紫は驚きを禁じ得なかった。
あの日から佐藤杏奈は「女の子」になってしまった。そうなるとどう接してよいのかわからない。やさしくすればジェンダー差別と罵られるかもしれない。結局、突き放したような態度をとってしまい、大紫は自分にイライラしていたのである。
 ここは少し、距離を置くのが良いかもしれない。
大紫はそんな胸中もあって、圭一郎の提案を受けたのだった。
 だが、翌日S組で、主役が圭一郎こと三山タイシに変更になったと知って喜ぶ杏奈の顔を見たら、気持ちが変わった。佐藤杏奈は「女の子」でもなんでもない。「三山タイシ」を狙う要注意なクラスメート。用心して接すべき相手なのだ。
 ああ、イライラする。ムズムズする。モヤモヤする!
なんだこの感覚は?
三山大紫は初めての感覚に戸惑い始めていた。
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