私と御曹司の始まらない恋の一部始終

第27話 YUNの正体

ドビュッシーのアラベスク第1番を、三山家のグランドピアノで響が演奏していた。
うっとりするように楽しんで弾いてるのが杏奈にもわかる。柔らかな旋律に身をゆだねると、自然と心も解放されていく。
 三山家の庭師の家にお試しで暮らして3日がたった。実家よりもコンパクトだけどその分掃除も少なくてすむし、静かな環境だし、とても暮らしやすい。けれど一番は、ストレスから解放されたことだ。
実家に住んでいる時は、家をとられてしまうことが頭から離れなかった。両親は帰ってくるのか、借金はどうなるのか、家を追い出されたらどこに行けばいいのか、家にいればどうしてもそのことを考えてしまう。でも三山家にやってきて、その不安がなくなったのだ。
 でもこのまま甘えていいのか、いつまでいてもいいのか、ちゃんと考えていかなくちゃならない。
 パチパチパチ。
 響の演奏が終わり、拍手が聞こえたので振り向くと、田鍋ケイイチロウと三山タイシの二人がいつのまにかやってきていたらしい。
「素晴らしい! ドビュッシーのアラベスクは高い演奏技術も必要だが、感性の豊かさも求められる難しい曲だ。それをここまで演奏できるとは、大したものだ!」
「ケイお兄ちゃま!」
響と、ついでに游までもが田鍋ケイイチロウにまとわりつく。
いつのまにか二人はすっかり田鍋君になついている。本当に不思議な人だ。
「お菓子をご用意していますよ、どうぞこちらへ」
三山君の言葉に、響と游が飛び跳ねるように走っていく。妹と弟がのびやかに過ごしているのを見ると本当に安心する。
「杏奈も一緒にどうだ?」
声をかけてくれた田鍋君に「ありがとう」とあらためてお礼を言う。
「なに、ビスケットとミルクだ。特別なものはない。ああ、もちろん俺たちはミルクじゃなくて紅茶だ」
「ありがとう、でもお礼を言いたいのはおやつのことじゃなくて、何もかもよ。家もとても素敵だし、ピアノのことまで考えてくれて本当にありがとう。私ね、とても安心していられるの」
「何よりだ。お試しと言わず好きなだけあの家に暮らせばいい」
「気持ちは嬉しいけど、こんなによくしてもらっていいのかな」
「当然だ」
「でも……」
田鍋ケイイチロウが杏奈の肩に手をおいた。
「いいか杏奈。今は甘えるべきなんだ。たしかに杏奈の家には問題がある。だがそれを高校生の杏奈が背負い込むことはない。助けを求めることこそ必要なんだ」
「田鍋君……」
両親が失踪してから、どうやって響と游を守ろうかばかり考えてきた杏奈にとって、田鍋ケイイチロウの言葉はまるで魔法のようだった。
頑張らなくちゃ、強くならなきゃと身の丈にあわない鎧を着ていたのに、その鎧にひびが入っていく。
「さあ、お茶の時間だ」
ケイイチロウの爽やかな笑顔が、杏奈の鎧を完全に打ち砕いた。

 放課後、S組校舎と一般校舎をつなぐ渡り廊下の横の小さな中庭に、杏奈とウタちゃん、ゆりぴょんと雪華が椅子をならべて集まっていた。
「では『恋バナクラブ』の会合を始めたいと思います」
ウタちゃんが目を輝かせて宣言する。
「ドキドキするね!」
ゆりぴょんも楽しそうだ。
「で、今日は誰の恋バナを聞けんの?」
「え」
雪華の質問にみんな顔を見合わせる。
「やっぱり杏奈ちゃんじゃない?」
「わ、わたしはもうなんにもない」
本当は好きな人がいるけど、そのことを打ち明けたら、田鍋君と三山君のBL関係に話が及びそうだ。それはよくない。あと三山家内の家に仮住まいしていることも、まだ内緒にしておきたかった。
「ゆりぴょんはどうなの?」
雪華が期待をこめて聞いた。
「ゆりはまだ特別な人はいないなあ」
たしかにゆりぴょんは、恋に恋する乙女タイプで、恋愛ドラマや漫画が大好きだし、モテにも関心が高いけど、特定の誰かの話は聞いたことがない。
「えーじゃあもう終了じゃん!」
「あの……」
「え、まさか詩子、恋バナあるの?」
「いえ、みんなでこの曲を聴きたいと思って」
そういうとウタちゃんは、スマホで曲を再生した。顔を隠した女の子がピアノの弾き語りで歌っている。

~カワイイ私を みてほしくて だけど君には 知ってほしくて
 昨日ついた嘘 過去は変わらない
 だから今日は泣かせて  
 君にだけ みてほしい 泣き顔も笑顔も きっと明日はスマイル~ 

杏奈は胸が締め付けられて苦しいほどだった。
支度金目当てで婚約者になろうとしたことを田鍋君に知られてしまったときはどうしていいかわからないほど気が動転したけれど、自分が置かれた苦境を田鍋君には知ってほしかったような気が後からじわじわとしてきたのだ。
そして今、田鍋君が寄り添ってくれているのが何よりも心の支えになっている。
「YUNの新曲だよね?! 昨日ネットにあがってたの、ゆりも聴いたよ!」
「ゆりぴょんちゃんもYUNのファンなの?」
「うん、学園祭にサプライズで来てくれたの感動しちゃった!」
「私も。学園祭のあと急にカップルがたくさんできたのは、『恋だったよ』を聴いたからだと思うわ」
「わかっちゃう! 今度の曲もいいよね」
「本当に」
盛り上がっているウタちゃんとゆりぴょんに、杏奈は聞いた。
「ねえ、なんて言う曲なの?」
「それが、曲名が出ていないのよ。まだ決まってないのかしら」とウタちゃんは首をかしげた。
「杏奈はこの曲どう思った?」
突然、雪華が聞いてきた。
「杏奈、言ってたでしょ? 知られたくなかったことを知られて、嫌われたかもしれないけど、本当は知ってほしかったのかもって」
雪華の真剣なまなざしに、杏奈はたじろぎながらも言葉を探し始めた。
「すごくいい曲だと思う、けど……」
「けど?」
「苦しい、また気づいちゃった」
雪華が、杏奈の次の言葉をじっと待っている。
「最悪な話だとしても、本当のこと知ってほしかったのは……好きだからだったんだ。好きな人に本当の私を知ってほしかったんだって、この曲きいたらわかっちゃった。あはは。あれ、なんかおかしくて涙でてきてない? やだなあもう」
杏奈はゴシゴシと涙をぬぐった。でも涙はどんどんあふれてきて止まらない。
「杏奈ちゃん……私、私……ああ、どうしよう、ごめんなさい」
ウタちゃんが杏奈の手をとった。ウタちゃんも涙を頬に光らせている。
「ええ? やだもうどうしたの。ゆりも泣いちゃうよ!」
ゆりぴょんが杏奈とウタちゃんの肩を抱き寄せ、3人で泣いて、この変なテンションに3人で笑って、また涙をぬぐった。
雪華だけが腕組みをして宙をみあげていた……と思ったら
「この曲のタイトルは『君の前で泣かせて』いま、決めた!」
え? 3人で雪華を見た。
「わたし、YUNだよ」
雪華がいたずらがバレた子供のように笑った。


 まさか雪華がYUNの正体だったなんて。
ネギを刻みながら、杏奈は雪華の話を思い返していた。
雪華が学園に来なかったのは、曲作りが忙しかったかららしい。なんとなく曲が作りたくなって(と、雪華はそのあたりは誤魔化していた)ピアノで曲を作り、歌詞を考えてと夢中になっていたら、学園を2週間休んでいて中間テストも終わっていたという。そうしたらもう面倒になって、できあがった曲「恋だったよ」の弾き語りをネットにアップすると再生回数をチェックしたり、コメントを読んだりしてずる休みしていたそうだ。すると10代のインフルエンサーが「恋だったよ」を気に入り紹介したことでバズってしまい、音楽レーベルから新曲を出せるか連絡が来たという。
「で、新曲を作るためにまた学園を休んでたわけ」
「お母さん、そのこと知らないよね? いじめの心配してたよ」
「みたいだね、けど誤解してくれたほうが休みやすいから否定も肯定もしないでおいた」
「うわ、私、S組でいじめがあるのかって本気で疑ってたのに」
「まあ、そうだったの?」
「あ、もちろん、ウタちゃんのことは疑ってないからね」
真実を知り呆気にとられたけれど、雪華の不登校問題があったからこそ杏奈はS組に編入させてもらえたわけだし、雪華は雪華で、訪ねてきた杏奈の話を聞いてスランプから抜け出して新曲を書き上げたというので、偶然と必然は紙一重だなと思う。
 それにしても杏奈が泣いてしまったとき、どうしてウタちゃんも泣き出したのだろう。「ごめんなさい」ってどういう意味だったんだろう?
 杏奈がぼんやり考えていると
「お姉ちゃま、お支度できた?」
響がキッチンに様子を見に来て、ハッと我に返る。
今日はラーメンをふるまうため、三山君と田鍋君を仮住まいの家に招待していたのだ。三山君に、家の住み心地を聞かれた時、何かお礼をしたいと言ったら、
「ではまたラーメンを作っていただいてもよろしいでしょうか?」
と頼まれたのがきっかけだった。
「今から麺をゆでるところなの。もう少し待っていてね!」杏奈はラーメン作りに集中した。


「やはり杏奈のラーメンは素晴らしい、絶品だ! そう思うだろう?」
「そうですね」
田鍋ケイイチロウが目をキラキラさせてラーメンを食べ、三山タイシがそれをほほえましく見ている。
杏奈は感謝の気持ちでいっぱいだった
額から汗が流れてきた田鍋君に、三山君が「どうぞ」とハンカチを差し出した。
まったくどっちが執事かわからない。
でもそれだけ親密な関係ということなのだろう。二人はやっぱり付き合ってるんだなと杏奈は感じた。不思議と嫉妬心はない。田鍋君は杏奈のことを受け止め、味方してくれた。そして杏奈の作ったラーメンを美味しそうに食べてくれている。それで十分だ。
「で、杏奈たちはいつ正式に引っ越してくるんだ?」
ラーメンを食べ終えた田鍋ケイイチロウが聞いてきた。
今はお試しで庭師の元住居に暮らしているが、本当にここで暮らすかを決めなくちゃならない。両親の借金の返済期限まではあと1カ月。返す目処がないのだから、家を出てここで暮らすしかないのはわかっていた。
「もう少しだけ、考えてもいい?」
杏奈はまだ決断できずにいる。ここに引っ越したとしていつまで甘えていいのかまだ悩んでしまう。
「そうか、わかった。ゆっくり考えてくれ」
せかさない田鍋君の気持ちがありがたい。
「ではそろそろお暇いたしましょう」
三山君が言って、2人は立ち上がった。


 庭師の家を出て歩き始めると、田鍋ケイイチロウの振りをしていた大紫は、三山大紫に戻って、圭一郎に語りかけた。
「杏奈がここで暮らせばこうして時々ラーメンを食べにくることもできるんだがな」
「そうなりましょう。今の佐藤さんにとって最も良い選択肢なのですから」
「だが、ひょっとしてこれは卑怯な行いではないだろうか」
「は?! 大紫様が卑怯などと、ありえません!」
「いや圭一郎、その……杏奈は好きな人がいると言っていただろう?」
「……はい」
「同級生の男子生徒と同じ敷地内に住むというのは、杏奈の恋愛を邪魔することにならないだろうか? 弱みにつけこんで、杏奈の恋愛を阻止するなど恥ずべきことだ。俺は決してそんなやり方をしたくないのだ、もっと堂々と」
ふいに、大紫の手を、圭一郎が握った。
「ん?!」
「佐藤さんがまだ我々を見送っております」
大紫が振り返ると、もうだいぶ離れたというのに、杏奈がまだ玄関に立って大紫と圭一郎を見送っていた。
「なるほど、俺たちがBLだと思わせておけば、杏奈は気兼ねしなくていいということか。さすが圭一郎だ!」
大紫は賞賛の気持ちをこめて、圭一郎の手をぎゅっと握った。
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