私と御曹司の始まらない恋の一部始終

第31話 恋バナクラブは継続中

「今日のゆり、目おっきくない?」
ゆりぴょんが新しく買ったアイライナーの効果を聞いてくる。
「うん、今日もすっごく可愛い」
「だよねー」
平和だなあ。これこそ私がいるべき場所だと杏奈は思った。
 両親と話し合いの末、公営住宅に引っ越すことが決まったけれど、秀礼学園には通い続けることになった。授業料も払い終わっているし、友達と一緒に過ごす時間は大切だと両親がこだわったからだ。響と游のためにも転校しないで済むならそのほうがいいに決まっている。そして杏奈もA組に戻って来た。ゆりぴょん以外は、杏奈は病欠だったことになっているみたいだ。
ほんの2カ月前となにも変わらない毎日。でも変わったこともある。
「放課後、楽しみだね!」
ゆりぴょんが嬉しそうに笑う。
そう、今日は「恋バナクラブ」の日だった。

 S組校舎と一般校舎をつなぐ渡り廊下横の小さな中庭。
ウタちゃん、雪華、ゆりぴょんと杏奈が一週間ぶりに顔をあわせた。
「お元気そうでよかったわ……」
まるで数年ぶりの再会のようにウタちゃんが感激しているそばで
「あーもう! なんでA組に戻っちゃったかな?! 杏奈がいないとつまんない」
雪華は不機嫌きわまりない。自分は学園に週2回程度しか登校していないというのに、杏奈の不在を責めるとは自分勝手にもほどがある。
「ゆりは毎日楽しいよー」
ゆりぴょんが杏奈に腕をからませてくる。
「ずるい! 離れな!」
「むーりー」
ゆりぴょんと雪華は意外と気が合うようで、なんだか楽しそうだ。
「雪華もウタちゃんもかわらなそうでよかった」
たった1週間なのにすごく長く会っていなかった気がするのは杏奈も同じだった。
「そんなことないわ、杏奈ちゃんがいなくて私は寂しくてたまらないの」
ウタちゃんが長いまつげをふるわせる。ああ、なんて可憐なんだろう。
「変わらないから退屈なの、わかんない?!」
雪華によれば、学園祭のあとにS組にもカップルができたのはいいが、
「みんな本当におとなしすぎ!」
らしい。クラスでベタベタすることもイチャイチャすることもなく、痴話げんかもしない。良家の子女たちの模範的な男女交際に雪華は不満らしい。
「それは仕方なくってよ。S組のカップルの中には、おつきあいを公言できない方たちもいらっしゃるでしょう?」
S組は日本有数の企業や、学術・文化事業に深くかかわる家の子女ばかり。その息子と娘の交際がもし婚姻に発展するなら、企業提携や合併につながる可能性も高いのだ。もしそうなると独占禁止法に違反する事態が生じかねないと、それぞれの会社の法務部が交際に難色をしめしているカップルもいるらしい。だからこそひっそりと、節度あるおつきあいが望まれているというわけだ。
「だからさ、そういう家とか親の事情にちゃんと配慮するのがつまんない。それって恋じゃなくね?って、ね、ゆりはわかるでしょ?」
「ゆりはーゆりのことだけカワイイって言ってくれる人がいいな」
「そーそー、そういうやつ」
「私はそうは思わないわ」
珍しくウタちゃんが反論する。
「家のことを考えてしまうのは仕方がないことだと思うの。でもそれでも溢れてしまう想いがあって、おつきあいを始めたんだもの。とても素敵なことだわ」
「そうかもしれないけど、私はそのあふれる想いってのをもっと見たいわけ! その点、杏奈は最高だった」
急に話をふられて杏奈はびっくりする。
「私?!」
「そうだよ、支度金目当てで御曹司に近づいたけど本当に好きになっちゃうなんて、めちゃくちゃ熱いよね」
「あー」
そうだった。雪華も、そして多分ウタちゃんもゆりぴょんも、私が三山君に恋をしたと思っている。たしかに後夜祭でダメ元で告白しようと考えていた相手は三山君だった。でもあの時、放送で流れたYUNの「恋だったよ」を聴いているうちに、私が好きなのは別の人だと気が付いたのだ。けど彼を探して走っていたら三山君をみかけて、あとを追いかけたら三山君と田鍋君が半裸で抱き合っていて……
「えー、杏奈ちゃん顔赤くない?」
「いい! やっぱ杏奈のストレートなところ、めっちゃ創作意欲刺激される」
「べ、べつに何でもないってば」
「ねえねえ、今、御曹司はどうしてるの」
ゆりぴょんナイス! 私も実は一番聞きたかったのだ。三山君と田鍋君のことが。
「どうなん?」
学園にあまり来ていない雪華がウタちゃんを見る。
「そうね……三山君はしばらく元気がないように見受けられたけれど、昨日ぐらいから変わったというか……なにか吹っ切れたような感じがするわ」
「それってワンチャン、杏奈がいなくて淋しいって説ある?」
「……そうかもしれないわね」
「ないって!」
三山君の元気がなかっとしたら、多分疲れだろう。これはウタちゃんと杏奈しか知らないことだけど、門倉先生が杏奈排除のために手をまわしていたことを突き止めたのは三山君だ。心労があって当然だ。でも今はそれよりも。
「あの、田鍋君はどうしてる?」
よし、自然な感じで聞けた。
「田鍋君は……すっかり大人しくなってしまわれて。きっと張り合いがないのね」
「それってあれ? 御曹司狙いの杏奈がいなくなって、気が緩んじゃった感じ?」
田鍋ケイイチロウが大人しい? 
ウタちゃんと雪華の会話を聞いて杏奈はそわそわした。
でもそうか、田鍋君は執事だし、三山君の秘密の恋人でもあるし、私がいないほうが安心できるんだ。門倉先生の嫌がらせもなくなって……ああ、やっぱりA組に戻ってよかったんだ。
「どうなのかしら。田鍋君は寂しいんじゃないかしら」
「え?!」
ウタちゃんの思いがけない発言に、杏奈は思わず声が出た。
「寂しいってなんで?」
「それは……S組の中で田鍋君と一番気があっていたのは杏奈ちゃんだったでしょう?」
気が合っていた? 揉めていたの間違いでは?
「えーそうだった? 田鍋君って誰とでも距離近い感じじゃない?」
杏奈は平静を装って聞く。
「そうねえ、確かに田鍋君にはそういうところもあるわ。でもS組の生徒は、私も含めてだけど、あまり前に出ようとしないというか、万事控えめなことが多いの。でも杏奈ちゃんと田鍋君はとても積極的で、私、感心していたわ」
「あ~それはほら、御曹司との婚約を1カ月で決めようとしてたから」
ゆりぴょんと雪華がプッと笑い出す。
「いいことじゃないかもしれないけどさ、それを本気で行動にうつせる杏奈ってすごいよ」
ゆりぴょんも「うんうん」とうなずいている。
「田鍋君は杏奈ちゃんのはっきりしたところや行動力をとても好ましく思っていたんじゃないかしら。杏奈ちゃんがいなくてクラスも静かで、きっと物足りないのよ」
「そんなことないよ、学園祭ロスってだけだよ、うん、絶対そう」
否定しながらも杏奈は、田鍋ケイイチロウが少しでも杏奈に好意を持っていたならと考えてドキドキした。期待したって駄目だとわかっているのに。
「まあ田鍋ケイイチロウのことは置いといてさ、三山タイシのことはどうするつもりよ」
雪華が杏奈をいたずらっぽく見つめる。
「結局ちゃんと告白してないんでしょ? このままフェードアウトしちゃっていいわけ?」
「そーだね、もういいかな??」
誤魔化そうとした杏奈を、ゆりぴょんと雪華が睨み付ける。
「もったいない!」
「いい? 誰かを好きになれたってめちゃくちゃ尊いことなんだからね。その気持ちは大事にして、ちゃんと伝えた方がいい」
そういうと雪華が突然アカペラで歌い始めた。
~いつも思い浮かべちゃう 視線の先に 心の中に 君ばかり
私、恋をしてるんだ 痛く 甘く 苦く にじんで 恋だったよ~
後夜祭のとき、この曲を聴いて走り出した気持ちが蘇る。
あのとき、杏奈はたしかに田鍋ケイイチロウを思い浮かべたのだ。
それは抑えきれないほどの胸のうづき、戸惑いと高鳴り。今もまた杏奈の体からなにかが飛び出しそうになる。
 でも杏奈は今、それは報われない想いだと知っている。なかったことにして忘れなくちゃいけない。なのにそんなことできないって心臓が叫んでる。頭の中にはいろんな杏奈お気に入りの田鍋ケイイチロウの姿が無限ループで再生されている。
「ねえ今誰のことを考えてる? 杏奈、自分の気持ちを大切にしなくちゃだめだよ」
雪華に言われて、杏奈は泣きたくなった。

 三山大紫は退屈だった。ちょうど来日していたウィーンフィルのコンサートに行ったり、カズオ・イシグロの新作を原書で読み始めたり、週末には久しぶりに乗馬の計画もたててはみたが、心の空洞は埋められない。
 佐藤杏奈のいない秀礼学園S組はまったく面白くなかった。みな礼儀正しく行儀よく穏やかで、親しく接してくるも適度な距離感を保ち、絶対に踏み込んでくることはない。佐藤杏奈だけが、転入当日から大紫たちに近づき、話しかけてきた。大紫が怪我をしたときは家まで押しかけてきてラーメンを作りだした。あれには驚かされた。そして非常においしかった。杏奈はいつも感情豊かで、怒ったり泣いたりしていた。ワイヤー事故の犯人が杏奈ではないと判明したあとに見せた涙はとくに忘れられない。そして時折みせる嬉しそうな顔は輝かしく、太陽のように温かく、大紫の体温を上げた。
 杏奈はA組で楽しく過ごしているのだろうか。両親が帰って来たらしいと圭一郎から聞いているが、問題は解決したのだろうか。
そして……杏奈の好きな人物は、A組にいるのだろうか。
「はあ……」
そのことを考えると、思考停止してしまう。一歩もすすめない自分に苛立ちを感じる。
「どうされましたか?」
圭一郎が紅茶とビスケットを運んできた。
 一週間ほど田鍋の家に戻っていた圭一郎は、十分な休養をとったのか、以前よりも明るくなった気がする。どんなふうに過ごしたのか聞いてみたら、
「父とゆっくり話をしました」と答えた。
「少し悔しいのですが、父はすべてお見通しでした。私が抱えている想いは執事として当然のことで、イニシエーションなのだと、父自身の経験も話してくれました。誰にも理解してもらえないと覚悟しておりましたが心が軽くなった気がします」
 圭一郎が誰にも理解されないと思い込むようなものを抱えていたというのは驚きだった。自分に話してくれればいいのにと大紫は思った。だが執事ならではの苦労があり、それを大紫に話すのは憚られるのかもしれない。ならばやはり執事である父親と語りあったのは良きことである。
「そうか、圭一郎がお父上と実りある時間を持てたのならよかった。これからもずっと俺のそばにいてほしい」
 大紫が言うと、
「もちろんでございます。私は大紫様にお仕えできることを心から幸せに感じております」
圭一郎が目を細めて答えたのだった。
その圭一郎が運んできた紅茶をいただきながら、大紫はまたもため息をつく。
「なにかご心配ごとでも?」
「いや心配というほどのことは何もない。ただ、そうだな。杏奈はA組で不自由なくやっているのだろうか?」
「それでしたら善財詩子さんか、日下部雪華さんにお聞きするのがよろしいかと。お二人は放課後に佐藤杏奈さんとお会いしているようですから」
「そうなのか?!」
「ええ、お二人から聞いたわけではなく、わたくしが観察して推測しただけですが……何やら非公式のクラブ活動を始められたようで、不定期に例の中庭に集まっているようなのです」
「圭一郎、すぐにそのクラブ活動について調べてくれ。俺もそのクラブに入る!」
三山大紫は立ち上がった。モヤモヤしていた霧が晴れたような気がした。
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