私と御曹司の始まらない恋の一部始終

第6話 初めての呼び捨て

まったく今日は散々だった。
三山大紫は自分の部屋にあるシャワールームでシャワーを浴びながら、編入初日だった今日の事を振り返っていた。
シャワールームを出て、髪を拭きながら内線電話で圭一郎を呼ぶ。
圭一郎の田鍋家は同じ敷地内にあるのだが、イギリスから帰国するとき親に頼んで、圭一郎のための部屋を三山家の中に用意してもらっていた。隣の部屋とはいえ、廊下を10メートル以上歩かねばならない。イギリスの寮では本当にすぐ隣だったので、こうやって圭一郎を待つわずかな時間ももどかしく感じる。
ノックがして圭一郎が入って来た。
「どうされましたか? 大紫様」
「髪を乾かしてくれ」
「かしこまりました」
髪を乾かしてもらいながら、大紫は今日一日で人間の裏表、正確に言えば佐藤杏奈の裏表を見たことや、クラスメートと微妙な距離を感じたことなどを苛立ちを隠さずにまくしたてた。
圭一郎は何も言わず大紫の髪をドライヤーで乾かしている。
大紫はこの時間が好きだった。幼いころから、品行方正で温厚篤実であれ、他人を悪く言ってはならぬと教えられてきたが、愚痴を言いたいこともある。そんなとき大紫は髪を洗って圭一郎にドライヤーをかけてもらうのだ。大紫の吐く愚痴がドライヤーの音でかき消されて聞こえないのか、圭一郎はずっと黙っている。それでいて大紫が一通り吐き出すとドライヤーが止まり、圭一郎は大紫の気持ちに寄り添った言葉をくれるのだ。
今もまた、大紫が言いたいことを言い終えると、圭一郎のドライヤーが止まった。
「そういえば大紫様。S組の生徒ですが、話しかけられるのを待っているように感じました」
「そうか?」
「はい。大紫様にお声をかけられたら皆喜ばれると思います」
「なるほど、日本人の奥ゆかしさというやつか」
「はい。ところでわたくしたちの入れ替わりは、明日からも続けるのですか?」
「もちろん。これは俺が三山家の当主になるためのいい訓練になる」
「わかりました。ではわたくしも大紫様の評判を下げぬよう、一層言動には気を付けていきたいと存じます」
「圭一郎はいつも通りで問題ない。ただ女子の前ですぐ赤くなるのはやめてくれ。俺が恥ずかしい」
「そ、それは申し訳ありません、努力します……」
「はははは」
大紫はすっかり気持ちを切り替え、明日が楽しみになっていた。

 杏奈は自分の強運に心から満足していた。
カフェテリアから三山タイシと田鍋ケイイチロウが去り、杏奈もボーっとソファ席に戻ると、桜月が興奮気味に聞いてきた。
「今、三山君にはなしかけられたよね?!」
「うん」
三山タイシはとても紳士的だった。杏奈を気遣い、悪いのは執事の田鍋ケイイチロウなのに代わりに謝罪までしてくれた。人間ができていると言わざるをえない。そして何より、切れ長の目、整った顔立ち、聞きやすい低音ボイス、細身で長い手足。
最高じゃない!
「杏奈ちゃんは三山君に話しかける権利を得たってこと?」
桜月がウタちゃんに聞き、ウタちゃんは「そうね」と認めた。
女の子たちが羨望の眼差しで杏奈を見る。
「執事の田鍋君とも言葉を交わしていたけど、あれはどうなの?」
「杏奈ちゃんがわざとぶつかったのなら、淑女協定破りになるんじゃない?」
他の女子が杏奈を咎めるような目で見た。
「そうねえ」審判者のウタちゃんは少し考えると、みんなに向かって言った。
「二人がぶつかったのは田鍋君に非があったと思う。だから田鍋君と杏奈ちゃんが言葉を交わしたのは田鍋君の意思」
「じゃあ杏奈ちゃんは三山君とも田鍋君ともお話する権利を得たのね」
がっかりした顔、うっとしりた顔、それぞれの表情をした女子が杏奈を見つめた。
やっぱりみんな三山家の御曹司を意識しまくっていたわけだ。
「先を越されちゃったけど、私、負けないわよ」
桜月が杏奈を見て微笑んだ。長い黒髪。額を出すことでさらに際立つ美しい顔の輪郭。今すぐミス日本に選ばれそうな子だ。性格もさっぱりしてそう。強敵に間違いない。
 でも杏奈だって負けるわけにはいかない。今の家に住み続けられるかどうかが懸かっている。
しかも御曹司がかなりいい感じだからモチベーションはめちゃくちゃ上がってるのだ。支度金をもらって借金返済に使ったら婚約破棄ではさすがに人間としてどうかと思ってたけど、本当に結婚するなら大丈夫な気もするし。
杏奈の頭の中にはウェディングドレスでヴァージンロードを歩く自分の姿が思い浮かんでいた。
今、御曹司に話しかけらる権利を得た女子は私だけ。他の女子が権利を得る前に、とっとと御曹司の心を奪わなくちゃ。そのためには……何をすればいい?
 物思いにふける杏奈は、桜月が
「あーあ、三山君は私にいつ話しかけてくれるかしら」と言った後、ウタちゃんが
「大丈夫、私に任せてちょうだい」とにっこり笑っていたことに気が付かなかった。

「お姉ちゃまぁ、お腹空いたよぉ」
むくれ顔の游に話しかけられてハッとする。夕飯の支度をしなくちゃ。
「待っててね。すぐ作ってあげるから」
「ラーメン?!」
「そう、野菜がいっぱい入ったおいしいラーメン」
ラーメンだけはたくさんあるのだ。
杏奈の両親は夫婦でラーメン屋を開業し、人気店にした。2号店、3号店と増えていき、妹の響が生まれた頃には都内を中心にチェーン展開が始まった。
大手食品メーカーとコラボしてチルド麺を出したり、コンビニエンスストアでの販売も計画が進んでいた。
でも変なブランディングアドバイザーと知り合ってから雲行きが怪しくなり、今年に入って店は次々閉店。両親は「すべて取り戻す」と言って出かけて行ったまま帰ってこない。そして杏奈は両親が多額の借金をしていたことと、家が抵当に入っていたことを知ったのだった。
 だが借金以外に両親が残してくれたものがあった。大量の生麺と濃縮スープを冷凍保存した業務用冷蔵庫だ。おかげで杏奈たちは毎晩ラーメンを食べて生きのびている。
毎晩ラーメンだと飽きてしまいそうだが、杏奈の両親が何年もかけて作り上げたラーメンは鶏ガラだけでなく昆布や小魚を使った滋味あふれるスープで、体に優しくて飽きのこない味わいだ。冷凍保存されていた肉で1週間分のチャーシューを作っておき、スーパーで見切り品の野菜を買って入れれば、栄養バランスも完璧な一杯が出来上がる。毎日食べてもホッとする美味しさだった。響も游も喜んで食べている。
 杏奈はラーメンを食べている時だけは、両親を身近に感じた。「すぐ戻る」と言ったのに帰って来ず、連絡も途絶えた時は心配し、挙句借金取りがやってきたときは恨みもした。
でもこんなに美味しいラーメンを完成させた両親への尊敬は忘れてはいけない。なにがあったのかわからないけど、両親には無事に帰ってきてほしい。それまでは私が響と游を守っていく。
幸い学費は納入済みだったので、通学できているが、毎日の生活はけっこう厳しい。
お金は大事に使わなくちゃ。3人姉妹弟で食費は1日千円に抑えたい。
杏奈はS組のカフェテリアの値段を思い出し、ため息をついた。

 翌朝、杏奈はS組校舎の車寄せエントランスで御曹司の登校を待っていた。
S組の生徒たちは車通学がほとんどだ。御曹司が車を降りてすぐなら、他の生徒にあまり見られずに話せると考えた。いくら杏奈が「三山君に話しかける権利」を手にしたとしても、教室の中でこれみよがしに話しかけるのも居心地が悪そうだと思った。
 車寄せにロールスロイスが停まり、中から三山タイシと田鍋ケイイチロウが出てきた。
御曹司は執事と一緒に登校してくるわけか。二人一緒ならかえって都合がいいかも。杏奈は校舎に入ってきた二人に「おはよう」と声をかけた。
「昨日はぶつかってしまってごめんなさい。私が謝るべきだったってあの後反省したの」
杏奈はまず田鍋ケイイチロウに詫びをいれた。
ケイイチロウはびっくしした様子で
「これから気を付けてくれればいい」とそっぽを向いて答えた。
うわ、嫌な感じ。
三山家の執事だからって、アンタが凄いわけじゃないからね? すごいのは三山家の御曹司の三山タイシ君だけだから。そこんとこわかってんのかな、この人。
杏奈は心の中で悪口を言いながら、しおらしくうつむいてみせた。そして大本命の三山タイシに向き合うと
「三山君、昨日は私をかばってくれてありがとう」と上目遣いで見つめた。
どう? 私の瞳、うるうるしてる?
「いいえ、こちらからお詫びしなければならないところでした。佐藤さんは丁寧な方ですね。同じ日に編入した者同士、仲良くしていただければと思います」
うわ! もう願ったり叶ったりだ! なんならこのまま婚約しませんか?!
もちろんそれは口に出せないが
「嬉しい。じゃあこれから私の事は杏奈と呼んでほしいな」
「え」
三山タイシが頬をそめて目をそらした。
もしかして照れてる? やだ、私も恥ずかしくなっちゃうじゃない。
けれど杏奈はそんなことを顔には出さず、首をかしげながら三山タイシを見る。
ほら、私を「杏奈」って呼んで。呼ぶまで待ってるんだから、と可愛らしくプレッシャーをかけるのだ。
「わかった。杏奈、これからよろしくな!」
なぜか田鍋ケイイチロウに呼び捨てにされて、杏奈はびっくりした。
なんで執事の田鍋君に呼び捨てにされなくちゃいけないのよ。
でも執事が呼び捨てで呼ぶようになれば、三山君も自然と杏奈と呼び始めるかも? ここは我慢しよう。初めて呼び捨てにされたのが田鍋君ってのはなんだか微妙だけど。
 そこで杏奈はハッとした。
男子に呼び捨てにされたのは、これが初めてだと。

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