チークタイムが終わる前に ー 恋なんてないと思ってた私に舞い降りた声
 閉店の時間、客たちが次々と店を後にする。
 志保もバッグを肩にかけ、片岡と一緒に外に出た。
 夜風は昼間の蒸し暑さをすっかり追いやり、夏と秋の境目の匂いがした。

「送りますよ。方向は?」
「いえ、駅まで歩けますから」
「じゃあ、途中まで」

 並んで歩く。
 大通りから少し外れた商店街は、ほとんどのシャッターが降りていて、人影も少ない。
 二人の足音だけが、夜の道に重なる。

「お店、ずっと続けてほしいです」
 志保がぽつりと言うと、片岡は少しだけ横を向いた。
「そう思ってくれる人がいるなら、頑張れるかもしれません」
「……少なくとも、ひとりはいます」
「ええ。確かに」

 交差点の街灯に照らされて、片岡が笑う。
 その笑みは、音楽に包まれていたときよりも、素顔に近い気がした。

 駅が見えてきた。
「ここで大丈夫です」
「気をつけて」
「片岡さんも」

 別れ際、何も約束はしなかった。
 けれど「また来ます」という志保の言葉と、「待ってます」という彼の言葉が、確かな合図のように心に残っていた。

   ◇◇

 帰宅し、明かりをつけて靴を脱ぐ。
 普段ならすぐに部屋着に着替えるところを、その夜は赤いスカートをはいたまま、ソファに腰を下ろした。

 鏡の前で選んだ小さなピアスが、まだ耳で静かに光っている。
 グラス越しに彼を見たときの、真剣な瞳がよみがえる。
「ここは僕にとって、唯一“好き”と“仕事”が両方ちゃんと残ってる場所です」

 その言葉が、自分にも向けられたような気がしていた。
 仕事に追われる日々の中でも、踊ることを手放さなかった自分。
 その選択を、誰かに肯定されたようで。
 
 志保はスカートの裾を軽くつまんで、ひとり小さくターンしてみた。
 部屋の静けさの中で、それは少し可笑しくて、でも胸が温かくなる動きだった。

――また、踊りに行こう。

 小さな決意が、胸の奥に静かに灯った。
 そしてその夜は、不思議なほど安らかに眠りにつけた。
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