チークタイムが終わる前に ー 恋なんてないと思ってた私に舞い降りた声

第5章 踊れない夜と、帰り着く場所

 職場の特養施設

 昼下がり、厨房の空気は重かった。

 入居者のひとりが昼食中に喉を詰まらせ、救急搬送されたのだ。
 幸い大事には至らなかったが、志保は胸の奥が冷たくなるのを感じていた。
「もっと刻んでおけばよかったかもしれない」
「献立に工夫が足りなかったのでは」
 責任を探す声は、誰も口に出さなくても自分自身の中に渦を巻く。

 その夜は疲れ果て、家に直帰するつもりだった。
 だが駅の改札を抜けたとき、足が自然と別の方向へ向かっていた。

 ――踊るなんて、こんな日に不謹慎かもしれない。……でも

 胸に溜まったものをどうにかしなければ、明日に向かえない気がした。

   ◇◇

 ライブハウス

「RUBY MOON」の扉を開けると、懐かしいギターのイントロが胸を打った。
 フロアはいつも通りの熱気に包まれている。
 片岡がカウンター越しに目を上げ、志保を見つけると、静かに微笑んだ。

「こんばんは」
「……こんばんは」
 声が少し震えたのを自分で感じた。

 ステージがバラードを奏で始める。
 片岡が近づき、手を差し出した。
「踊りませんか」
 志保はほんの一瞬ためらい、けれど頷いた。

   ◇◇

 彼の腕の中で、緊張がほどけていく。
 ステップに身を任せながら、志保は小さくつぶやいた。

「今日、職場で……少しあって。踊れる気分じゃなかったんです」
「……それでも来てくれた」
「ええ。来なかったら、きっと眠れなかった」

 片岡は少し強めに手を握り、静かに言った。
「ここは、そういう場所でいいんです。踊れない夜も、来ていい」

 その言葉に、胸がじんと熱くなった。
 仕事でも家庭でもなく、ただ“自分でいていい場所”。
 志保は、目を閉じてリズムに身をゆだねた。

 曲が終わる頃、涙がにじんでいた。
 けれどそれを見て、片岡は何も言わなかった。
 ただそっと、最後まで手を離さずにいた。
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