チークタイムが終わる前に ー 恋なんてないと思ってた私に舞い降りた声

第6章  Anniversary Night

 店の前から、もう熱気が伝わってきた。
 周年イベントの夜、志保は少し早めに「RUBY MOON」の扉を押した。
 いつもの週末とは違い、客席はぎっしりと埋まり、ステージにはバンドが並んでいる。
 赤と金のライトに照らされ、天井近くには色褪せた風船がゆらゆら揺れていた。

「いらっしゃい」
 カウンターの奥で片岡が目にとめ、手を軽く挙げた。
 その表情は、忙しさの中にあっても、彼女に向けるときだけ柔らかかった。

 志保は深呼吸をして、スカートの裾を整えた。
 今日は少し勇気を出して、新しく買った黒のパンプスを履いてきた。
 鏡の前で長いこと迷ったけれど、これに決めてよかったと思う。

 バンドが最後のセットを告げ、スローなイントロが流れる。
 場内のざわめきが静まっていく。
 片岡がフロアへと降り、観客の視線の中をまっすぐ志保のもとへ歩いてきた。

「……一曲だけ、お願いできますか」
 その手は、あの夜と同じ温かさを湛えていた。

 志保は息をのみ、けれど自然に手を差し出していた。

   ◇◇

 音楽が満ちる。
 二人はゆっくりとステップを踏み、フロアの中央に溶けていった。
 周囲の視線はすぐに消え、残ったのはリズムと互いの呼吸だけ。

「この店をやってきて、何度も周年を迎えたけど……」
 片岡の声は低く、胸元に落ちる。
「今夜が一番、特別です」

 志保は視線を逸らせなかった。
 心臓が強く打ち、音楽よりも自分の鼓動が大きく響いているようだった。

「……どうして?」
「あなたと踊ってるから」

 ほんの短い言葉。
 けれど、それだけで十分だった。

 志保の頬が熱くなる。
 涙が滲みそうになって、笑いでごまかすようにステップを踏む。
「……そんなふうに言われたら、また来なきゃいけなくなるじゃないですか」
「そのつもりです」

 曲が終わり、拍手が沸き起こる。
 二人はまだ手を離さず、余韻の中に立ち尽くした。

  ◇◇

 その夜、志保は思った。
「もう恋なんてない」と思っていたのに、心はもう、とっくに踊り始めていたのだ。
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