チークタイムが終わる前に ー 恋なんてないと思ってた私に舞い降りた声

第2章 白衣の時間、赤い記憶

 ステンレスの台に、刻み終えた大根の山が静かに積まれている。
 朝の献立は、鯖の味噌煮と根菜の煮物。80人分の食材が、順序よく、黙々と処理されていく。

「佐倉さん、厨房の冷蔵庫、また結露出てますね」
 若い調理補助がタオルを手に駆け寄ってくる。

「ありがとう。管理ノートに記録しておいて。午後に業者へ連絡するわ」

 志保は白衣の袖をまくりながら、手早くチェックリストに目を走らせた。
 動線、栄養バランス、衛生管理。ひとつでも崩せば、命に関わる場所だ。
 48歳。管理栄養士として、この仕事に関わって20年以上。責任も、信頼も、プレッシャーも、全部ここにある。

 だけど──

 給湯室で手を洗っていたとき、ステンレスの蛇口に反射した自分の顔を見て、ふと、昨夜の記憶がよみがえった。

 ほんの一瞬だけ、自分が踊っていた姿。
 赤い照明の下で、見知らぬ男に手を引かれて、身体が音楽に溶けていた。

 (また、来てくれますか?)

 あの声が耳に蘇る。
 控えめで、でも確かに“志保という一人の女性”を見てくれていた声音。

 彼の手は温かかった。
 しっかりしていて、でも押しつけがましくない。
 リードに身を預けることに、こんなに安心感を覚えたのは、いつ以来だったろう。

「佐倉さん?」

 背後から呼ばれて、志保はハッとする。
 調理室の奥にいた主任が、微笑ましそうにこちらを見ていた。

「ちょっと、夢の中にいたでしょ」
「……いいえ、考えごとです」

 そう言いながらも、自分の頬が少し熱くなっているのを志保は感じていた。
 夢の中。
 そうかもしれない。
 でも、昨夜のあれが“夢”だったとしても──悪くない夢だった。
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