チークタイムが終わる前に ー 恋なんてないと思ってた私に舞い降りた声

第3章 ゆるやかに近づく音

 土曜の夕方。
 仕事帰りに立ち寄ったドラッグストアのコスメコーナーで、志保は足を止めた。

 リップの棚に並ぶ色とりどりのチューブ。
 その中の一本、ローズベージュの試供品に、ふと目がとまる。
 淡くて落ち着いた色。でも、光の加減でほんのり赤みが差す。

 ――派手じゃない……でも、なんか、やさしい色

 志保は、買い物かごにそっとそれを加えた。
 まるで何かに背中を押されたように。

 帰宅後、いつものようにシャワーを浴び、スキンケアを終えたあと、鏡の前に立った。
 髪をブローしながら、志保は少しだけ鏡を見つめる時間が長くなっている自分に気づく。

 ――今日は、スカートにしようか

 棚の奥から、赤いフレアスカートを取り出す。
 かつてよく仲間たちとライブハウスに通っていた頃、お気に入りだった一着。
 ウエストが少しきつくなっていないか、そっと確かめながら、志保は笑った。

 ――バカみたい……でも、なんだか、これで行きたい気がする

 リップを塗る。
 軽くチークをのせる。
 イヤリングを選んで、迷った末に小さなパールを耳につけた。

 服も、髪も、化粧も、誰かのためというよりも、
「彼女自身が“踊る自分”にふさわしいと思える自分」であるために。

 ――別に、期待なんてしてない。ただ……もう一度、踊りたくなっただけ

   ◇◇

 夜八時過ぎ。
 ライブハウス「RUBY MOON」の前に立ったとき、志保の胸はほんの少しだけ高鳴っていた。

 ドアを開けると、赤と金の照明が迎えてくれる。
 馴染みのメロディ。グラスの音。誰かの笑い声。

 ――ただいま、って言いたくなるくらい……慣れてる場所のはずなのに

 店の奥、カウンターの向こうに、彼はいた。

 黒のシャツにグレーのジャケット。
 ラフだけど、どこかきちんとした佇まい。
 片岡はすぐに彼女に気づき、軽く会釈した。

「こんばんは」
 志保も、小さく頭を下げる。

 すると、片岡がカウンターから回り込み、ゆっくり近づいてきた。

「来てくれて、嬉しいです」
 その声は、前と変わらず静かで、でも確かに“個人”としての彼女に向けられていた。

「……踊りたくなったので」
 志保は、軽く笑った。

「前回のダンス、ありがとうございました」
「こちらこそ。……あんなふうに踊ったの、久しぶりでした」

 二人の間に、微妙な間が流れる。
 でも、それは気まずさではなく、何かを共有した者だけが持つ“間”だった。

 ステージではバンドがチューニングを始めている。
 フロアの空気が、再び音楽に染まり始める。

「……今夜も、踊りますか?」

「ええ」

 その返事は、まるで志保自身の鼓動を代弁しているようだった。
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