チークタイムが終わる前に ー 恋なんてないと思ってた私に舞い降りた声
 店を出ると、夜風が頬を撫でた。
 まだ夏の名残を含んだ空気が、踊ったあとの火照りをやわらげてくれる。

 街灯の下、赤いスカートの裾がかすかに揺れる。
 歩くたび、さっきまで握られていた手の感触がよみがえった。
 あれは、ただのダンスのための手だったのかもしれない。
 でも、心臓の鼓動はまだ静まりきらない。

 ――「また来ます」なんて、自分から言うなんて……

 志保は、自分の口から出た言葉を思い返して苦笑した。
 ここ数年、誰かに会う予定をわざわざ作ることなんてなかった。
 職場と家の往復。休日は必要な買い物だけ済ませて、あとは静かに過ぎる時間。
 それで充分だと思っていたはずなのに。

 信号待ちで立ち止まる。
 ビルの窓に映った自分の姿が、いつもより少しだけ明るく見えた。
 スカートの色のせいかもしれない。
 あるいは、あのカウンターで聞いた言葉のせいか。

 ――次は、もう少しだけ、ちゃんとおしゃれしてみよう

 決意というほど大げさではない。
 でも、自分のために、そして――もしあの人が気づいたら、それも悪くない、と思えるくらいの変化。

 信号が青に変わる。
 志保は、赤いスカートの裾を軽く押さえて歩き出した。
 ベースラインの音がまだ遠くに聞こえるような気がした。
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