チークタイムが終わる前に ー 恋なんてないと思ってた私に舞い降りた声

第4章 ダンスのその先へ

 その夜、志保はいつもより少しだけ早く家を出た。
 鏡の前で髪をゆるくまとめ、耳元には控えめなシルバーのフープピアスを揺らす。
 服は、前回と同じ赤いスカート。でも、合わせたのは新しく買った黒の七分袖トップス。
 首元に小さなペンダントを添えるだけで、鏡の中の自分が、ほんの少し背筋を伸ばして見えた。

 ――これで充分。……たぶん

 ライブハウスのドアを開けた瞬間、温かい音の波が胸に押し寄せた。
 ステージではギターが軽快なリフを刻み、ベースがそれに絡む。
 目が合った瞬間、片岡の口元に笑みが浮かぶ。

「こんばんは」
「こんばんは」
「今日は……なんだか、雰囲気が違いますね」
 志保は肩をすくめた。
「仕事帰りに、ちょっと寄り道してきたんです」

 ステージが一曲を終えたタイミングで、片岡がフロアの方を顎で示す。
「踊りますか」
「ええ」

 前回よりも自然に、彼の手を取った。
 ステップを踏みながら、会話がゆるやかに重なっていく。

「佐倉さんは、ずっとこの町ですか?」
「高校まではね。そのあとは栄養士の資格を取るために県外に出て……仕事で戻ってきました」
「戻ってきた理由は?」
「……結婚するつもりで。でも、しなかった」
 一瞬、笑顔に小さな翳りが差す。
「破談になったんです。もうずいぶん前の話ですけど」

 片岡は視線を逸らさず、ただ静かにうなずいた。
「……僕も、離婚してます」
「そうなんですか」
「20年前。この店を始めた頃です。妻には安定した生活をさせられなかった」
 その声は後悔というより、事実を淡々と告げるようだった。

 一拍置いて、志保が言う。
「じゃあ……ここが、片岡さんの生活そのものなんですね」
「そうですね。……でも、生活というより、“居場所”かな」

 踊りながらの会話は、妙に心を素直にさせる。
 リズムに身体を預けるうち、言葉も警戒も溶けていく。
 気がつけば、お互いの過去にそっと触れていた。

 曲が終わり、拍手が響く。
 二人は軽く頭を下げ合い、そのままカウンターへと並んで歩いた。
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