冤罪で王子に婚約破棄されましたが、本命の将軍閣下に結婚を迫られています⁉︎
 彼女が息を整える間もなく、彼は囁くように言った。

「あなたは私のものだ。たとえ国全体が敵に回ろうと──誰にも手出しさせない」
 そう告げて彼は、名残惜しそうにもう一度軽く啄むように口づけてから、静かに馬車を降り、扉を閉める。

「それでは、また明日」
 ゼルナークはそう言ってから、前方にいる御者に合図を送った。

 馬車が動き出してもなお、ユフィルナの胸は早鐘のように打ち続けている。

「私……どうしたら……」
 そっと唇に触れ、そのまま顔を覆って馬車の座面に突っ伏した。

 ――冷静であれ。

 ――そんなの、無理。


******


 ゼルナークとの最初の記憶は、すみれの香りとともにある。

 まだ少女だった頃のユフィルナは、タウンハウスの中で迷子になることがよくあった。あの日も、使用人に呼ばれて父のもとへ向かう途中、まちがえて応接間の扉を開いてしまった。

 そこにいたのが、ゼルナークだった。まだ若き将校だった彼は、父との軍務の打ち合わせを待っていたのだろう。端然と椅子に腰掛けた彼が、まるで一幅の絵画のように、静かに一つの菓子をつまんでいた。

「――すみれの砂糖漬け!」
 ユフィルナは、ぱあっと目を輝かせた。大好きな菓子だったからだ。

 しかし、目の前の端然とした雰囲気の青年が食すにはあまりにも意外で、ユフィルナは部屋を間違えたことも忘れ、その場に立ち尽くしてしまった。

「……どうかされましたか?」
 ゼルナークの低く穏やかな声に、彼女は慌てて首を振る。

 彼はふっと目を細めて、掌に乗せた紫の花をユフィルナに渡した。

「これは秘密、ということで。軍人が甘いものを好むなんて、知られたくないので」
 彼が少しだけ照れくさそうに唇を綻ばせる。その様子に、ユフィルナの胸がことんと初めての感情に揺れた。

 それから数年が経過――。

 ユフィルナはシルファンの婚約者として振る舞うことを求められ、社交界の中心に据えられていった。

ゼルナークと顔を合わせることもほとんどない。けれど、彼の存在がすみれの花の香りとともに心に残り続けていたことに、彼女はずっと気づかないふりをしていた――あの日までは。

 ――貴族学校の卒業式の日。

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