明治女子、現代で御曹司と契約結婚いたします
作戦
✿ ✿
「じゃあ行ってくる」
「運転、気をつけてくださいね」
――いつもの朝の光景。出勤する夫と見送る妻の、なんでもない日常だ。
(……実質は、夫婦らしいことなど何もできていないのだが)
ドアを閉め、桐吾は自分の不甲斐なさを呪った。カツカツと廊下を歩き、エレベーターで駐車場へ向かう。
毎朝の玄関前でも「行ってらっしゃい」のキスをするわけでもない。頭をポンポンとするのがせめてもの接触だったが、最近の澪は「子どもじゃないのに、もう!」とふくれる。
(だが、ふくれた澪も可愛いからな)
と考えてしまう桐吾は我ながら末期だ。その病名は「愛妻病」とでも言おうか。
――いつの間にこんなに澪のことを、と不思議に思う。
大切にしたい。だがそれと同じぐらい、困った顔も見たかった。めちゃくちゃに抱きしめてしまいたいし、乱れてすがりつく声も聞いてみたい。
なのに手を出せずにいるのはたぶん、最初に「契約で」と持ちかけたからだ。つまり全部桐吾自身のせいだった。
(澪はもう冬悟のことを思い切っている……のかもしれない。だが、俺を真実の夫と認めるかどうかは別問題だ)
妻として久世本家にまで挨拶に行ってくれたが、それも契約の範囲内と考えている可能性は否定できなかった。
律義で素直な澪のこと、全力で妻を演じてくれているだけだったら――調子に乗って男女の本番に持ち込もうとしたとたん泣かれるはず。あげく百五十年ぶり二回目の入水自殺を計られたらどうすればいいのか。それが怖くて、桐吾はどうしても踏ん切りがつかないのだった。
そんなわけで健全な朝を迎える人間たちに白玉は冷たい視線を向けていた。
――せっかく澪を夜、一人きりにしているのに。
そう言いたいのが猫の姿でもよくわかった。
「無茶言うなよ、化け猫め……」
つぶやいて桐吾はエンジンをかける。頭を仕事に切り替えた。
とにかく今は、伯父を追い詰めるための証拠を掴まなければならない。