明治女子、現代で御曹司と契約結婚いたします
 それは普通に聞けば「姓がなんだろうとかまわない」という決意表明。だがその声は泣きそうだ。桐吾は全身の血が逆流するような気がした。

(何を泣く。冬悟を想ってか。今の〈とうご〉はどっちの〈とうご〉だ)

 桐吾。それとも冬悟。
 澪を問い詰めたかった。顔をこちらに向けさせて、腕の中に囲い込んで、なんなら押し倒して「俺だけを見ろ」と言ってやりたい。
 今の澪はここにいる。桐吾の隣にいる。
 なのに過去の許婚にとらわれているのが許せなかった。心ここにあらずな女というのはこんなに腹立たしいものか。

「あら、付け入る隙はありませんかしら。仕方ありませんわねえ、ならば開発の話だけでもかまいませんわ。わたくし久世建設との合弁事業を構想しておりまして。ぜひ桐吾さんに久世側の窓口になっていただきたいの」

 しゃあしゃあと向日葵はビジネスに話を戻す。桐吾は不機嫌なまま吐き捨てた。

「それは誰でもいいでしょう。事業内容にふさわしい者が担当することになりますね」
「そうおっしゃらず前向きに検討をお願いしますわ。峰ヶ根の山林を伐り開くにも駒木野の河川を利用するにも町民の反発が予想されますのよ。地元の名士の顔は重要だと思いません?」
「……山と、川。壊すんですか」

 ぽつりと言って、澪は眉をひそめた。ふるさとの話だからと必死に耳をすましていたのだ。理解できない部分も多いが、これは聞き捨てならない。空気が変わった澪を桐吾は制止した。

「澪、峰ヶ根と駒木野の開発はまだ持ち上がったばかりの話だ。どんな規模にするかも未定だし、ポシャる可能性もある」
「あのあたりは!」

 澪は食ってかかった。桐吾に語気を荒らげるなんて珍しかった。

「危ないんです。久世は知らないんですか。峰ヶ根の山は駒木野の水の命綱。うっかり荒らせば川が暴れる」

 しゃんと背すじを伸ばし言い切った澪はいつもの数倍キリリとしている。それはかつて、峰ヶ根を背負って駒木野に嫁ぐはずだった娘としての矜持だった。


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