あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜

プロローグ

 朝霧の立ちこめる市場の一角。
 まだ日が昇りきらない通りに、人々の活気があふれる。
 干した大根の葉が風にゆれ、野菜と魚の匂いが入り混じる。
 どこかの民家からは、炊き立ての白飯と味噌汁の匂いが漂ってきた。

 早春の朝、吐く息はまだ白く、ひなは肩をすくめながら息子の手を引いて歩く。
 今日は女将さんに頼まれて、馬車で山を下りて麓の市場まで買い出しに来た。
 帳面を胸元に仕舞い込んで、朝早くから出てきたのだった。

 三つになる息子の慶翔(けいと)も、普段は女中部屋の片隅で遊んでいるが、今日は着いてきてしまった。
 叱る気にもなれず、厚手の羽織にくるんで連れてきた。
 小さな手は冷たくて、でもしっかりとひなの指にしがみついている。

「おかあさん、あれ、かって〜」

 慶翔が指さすのは、蒸気がのぼる焼き芋屋。
 芋の甘い香りが風に乗ってくるが、ひなは微笑んで首を横に振った。

「今日は見るだけ。宿に戻ったら、干し芋があるからね」

 香ばしく漂うその香りとは別に、ふと、ふんわりと甘やかな匂いが鼻先をくすぐった。
 それは、スミレの花の匂いだった。ひなは足元に目をやる。石垣の陰に、紫の小さな花が風に揺れている。

 慶翔がそれに気づくと、ぱっと顔を明るくして、かわいらしい歩幅で駆け寄った。
 
「おかあさん、これ、摘んでいい?」
「いいわよ。押し花にして、しおりを作ってあげる」
「やったぁ!」

 幼い手が、春の空気に包まれたスミレを大切そうに摘んでいく。
 ひなはその後ろ姿を、胸がほころぶような思いで見つめていた。
 スミレは、野に力強く、それでいて静かに咲いている。
 まるで今の自分たちのようだ──そう思った。

 慶翔が花を摘み終え、ふたりでまた歩き出した、その時だった。
 人混みの向こうから、低く、どこか懐かしい、聞き覚えのある声がした。

「……ひな……?」

 その声に、ひなははっと振り返る。
 人の波が分かれるようにして、そこに現れたのは──
 まぎれもなく、あの人だった。

「旦那様……?」

 ──もう、二度と会うことはないと思っていた。
 あの日、心を殺して家を出てから、どれだけの時が流れただろう。

 彼の瞳が見開かれる。その視線が、ひなの足元にいる慶翔へと移った。

「その子は……」

 ひなはハッとして唇を引き結び、小さく頭を下げた。

「……失礼いたします!」

 逃げるように、群衆の中へと足を速めた。
 慶翔の手を引いて、人の波の合間を縫うように。
 足袋の底がひんやりとするが、今はそんなことも感じていられなかった。

(──どうして?)

 どうして、あの人がここへ?
 ひなの鼓動は、早まるばかりだった。
 群衆に紛れながら、ひなは胸元を押さえた。

(……もう、忘れたと思っていたのに)

 心を焦がすような記憶が、朝霧の向こうからゆっくりと立ち上がる。
 その時、足元から小さな声がした。
 
「おかあさん、いたい」

 はっとして見下ろすと、慶翔が眉をひそめてこちらを見上げていた。
 どうやら、思わず手を強く握ってしまっていたらしい。

「あ……ごめんね、慶翔」

 ひなは膝を折り、その場にしゃがみ込むと、慶翔の小さな体を抱きしめた。
 冷えた指先も、温もりを宿した頬も、ひなの胸にぴたりとくっつく。

(……そう、私には慶翔がいる)

 ひなは、そっと瞳を閉じた。
 どれだけ過去に心を引き戻されようと、この小さな命を守ることが、今の自分のすべて。
 彼に似たその瞳を見て、あの日々を思い出すことはあっても──。
 この場所で、この子と生きていく。

(それが、私の選んだ道だから)

 自分たちの居場所はここしかないのだと、そう思った。
 慶翔の持つスミレを見て、ひなは思い出す。
 そういえば、慶一郎と出会ったのも、スミレの咲く季節だった──と。
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